2007年1月11日木曜日

ベトナムの旅





1月3日にベトナムから帰ってきた。「どうだった?」ってみんなに聞かれる。返事は簡単ではなくて、「うん、とてもインタレスティング。すごいエネルギーだった。衛生状態はちょっと良くないかな」というあいまいな言葉になってしまう。
「グレート!また行きたい。すごく楽しかった」とかいうのが普通、旅をしてきた人から聞く言葉なんだけれどね。 でも行ってよかった。
冷房の効いた大型バスから道や人々を眺めて、高級ホテルへ宿泊して、買い物をするというのではなく、9歳のときにベトナムを離れたという友人、ベトナム語を話すランと彼女の夫のステーヴ、友人のベスとブラッドのカップル,それに私たち家族3人と7人の旅で、ガイドさんは付いていたけれど、それでも地元の人との交歓がある旅だったので、低開発国を肌で感じることが出来た。

人口800万というサイゴンから旅は始まった。すごい空気汚染で外に出ると目が痛くなるし深く呼吸すると咳きが止まらない。道路という道路はオートバイの洪水で、車は珍しく、クラクションを鳴らしっぱなしという感じでオートバイの中を掻き分けて走る。ホンダの名前があちこちで見られたし、日本の最大の顧客だろうなと思った。ガイドさんが日本が最大の投資国ですと言ったので、なるほど。
日本やカリフォルニアの大都市は車の洪水だけれど、それをオートバイに置き換えたらぴったりだ。ルールがないようで、それでいて一定の暗黙のルールで走っている。車のクラクションは鳴らし方に意味があるらしく、時によって鳴らすリズムや回数が違っていた。道路わきに住んでいたら、ひどくうるさいだろうね。トラックがなくても大丈夫とばかりにいろんなものをオートバイで運んでいるし、赤ちゃんを含めて4人乗りなんてこともしている。オートバイは規則では二人以上乗ってはいけないということになっているのだけれど、今日は土曜日なので警察が黙認しているのだと、ガイドさん。自転車の人はちょっと引け目があるという感じで走っていた。
  クリスマスの夜に付いたので、サイゴンの有名な教会がある広場は人で埋め尽くされていた。夕食を終えて帰るのに、車なら立ち往生していつホテルに着くかわからないから歩きましょう、ということになってオートバイと人で身動きできない道を歩いて帰った。道を横断するときはスリルに満ち溢れていた。オートバイが腕に触れる位置まで押し寄せてくる道を「みんなで歩けば怖くない」と信じてゆっくりと止まらずに走らずに歩いていくのだ。途中で10代のグループがアメリカ人を見て「わーい!」といって紙ふぶきを浴びせてきた。汗びっしょりのレイとベスが紙ふぶきをたっぷり浴びて、顔や首筋にくっつき、シャワーをしても全部取れてなかったほどだ。アジア人の私は邪魔よといわんばかりに筋肉が締まったグループの女の子に跳ね飛ばされた。


翌日、メコンデルタへ行ったのだが、距離的にはそれほど遠い所ではないのに、恐ろしく長い時間がかかった。その主な理由はサイゴンを出るのと、ホテルへ帰るときに交通渋滞で片道に2時間以上かかったからだ。サイゴンを抜けると少し交通量が減ったけれど、それでもオートバイが目に入らない道路はなく、人口密度の高い国であることを実感。1世代前までは子供は5-7人が普通だったのが、今、ようやく二人くらいに減ってきたとのこと。メコンデルタのほうへ行くと水牛が畑を耕していたり、薄茶色の牛が道路脇に鎖につながれて、それでも車やオートバイにはおびえていなくてあどけない表情で寝そべっていたり、4匹の豚を金網の折に入れてオートバイで運んでいたりと、のどかで貧しくて第二次世界大戦前の日本てこんなんだったのかなと思った。 
  メコンデルタのあの込み入った運河?と近代人には理解できない文化と暮らしをもつ人々を相手に、戦争をしたアメリカの無知と傲慢さ、そして刈り出された若い戦士たちに思いが飛んだ。しかもあの戦争に懲りずにまた全く文化も宗教も習慣も違う、理解が出来ない国、イラクを相手に戦争を仕掛けたアメリカというか、ブッシュ内閣に、旅の全員がうんざり。 メコンデルタの絵葉書や帰りに飛行機で読んだ機内誌(アメリカ人が書いていた)の写真はやらせ?だね。実際に見た風景は写真のようにカラフルでもなかったし、写っている女性は絶対にモデルだよねという感じなのだ。この辺はやっぱり開放政策を取っているといっても共産国だなと変なところで感心した。
  メコンデルタでのランチは、共産国になる前の地主の豪華な屋敷をホテルとレストランに変えて、暮らしを立てているというところで食べた。とても優雅な応対と流暢な英語で歓待されて、食事も美味しく楽しかった。娘はここで食べた魚でお腹の調子を崩したけれど。すぐに食事をするのかなと思っていると、庭を見たいですか?と南洋の植物とフルーツが実っている庭をゆったりと歩く。時間の感覚が違う。


ナ・トラングへ飛行機で飛び、素晴らしいリゾートホテル(テレビも電話もなく静かに休む静養所という感じ)でゆっくり。海の色が美しい。漁船が夜になると灯りをつけてたくさん出てくるのを眺めた。ベトナムの女性は日に焼けるのを嫌うので、日中は誰も海にはいなくて「クレージーなアメリカ人だけが海に出てる」というわけで波乗りを楽しんだ。このホテルにはヨーロッパ人はいたけれど、アメリカ人は初めてだということだったし、日本人は見なかった。緑色のきれいな芝生はいつも水をまいているわけだから、いくら殺虫剤をまいていても蚊が生存しているので、肌がソフトな娘は脛中、蚊に刺されて、ちょっとぎょっとしたけれど、熱も出なくてほっとした。このホテル滞在の4日目、最後の日は冬から春の気候パターンに変わったとかで、温かい雨が降り出した。

  また飛行機でダナングへ移動。古い歴史のある街、ホイ・アンに宿泊。古いのは素敵だけれど、下水設備があまりきちんとしていなくて、雨がしとしと降って、いろんな臭いがして、ちょっとつらかった。ガイドさんが市場にある手作りのヌードル(うどん?)が美味しいという店に連れて行ってくれた。食べる前にトイレに行ったベスが、キッチンを見て「とてもインタレスティング」といった。私は肯定的なコメントと考えていた。曇ったガラスのコップと袋に入った割り箸ではなくて箸たてにはいっているのを使うのにちょっと抵抗があったけれど、ベスの恋人のブラッドが持参した殺菌用の紙でグラスを一つ一つふいてくれたし、勇気を出してエーイ!とばかりに箸を取り出して、うどんを食べてビールも飲んだ。グループはベトナムのビールを全種類飲むというので、毎日違うビールをオーダーしていた。うどんはとっても美味しかった。いろんな生のハーブが盛ってあってこれもなかなかいい味がした。でも向かいに座っているベスとブラッドは、これはなんていうハーブかな、なんて箸でつまんでみたりして関心を示しながら、さりげなく食べずに残していた。食事の後にトイレに立って、見たキッチンにショック。ベスはそれを知っていて生ハーブを食べなかったのだ。
  この古い町には大型バスでやってきた日本人の観光客がたくさんいて、熱心に買い物をしていた。買い物をしているときには値段の交渉をしないとあほだとバカにされるから75%から50%(これだと大成功)に負けさせるように交渉しなさいとランに言われたので、交渉は苦手だったけれど、交渉した。素敵な手で刺繍したバックを10ドルだったのを8ドルにまけてくれた。嬉しさ半分と、これを作っている人たちの賃金て、信じられないほどに安いんだろうなと、同情が頭の中を掠めた。でも使い始めて1週間後に持つ部分の紐が壊れた! アメリカ系ベトナム人であるランはツーリストはしないという方針だったので、カフェも地元の人が行くカフェへ入った。コーヒーは確かに美味しかった。ここでもまたブラッドが曇ったガラスのコップを拭いてくれた。コヒーカップは拭いても取れないほどに黒くなったシミがカップ内に染み付いていた。ランが9歳でベトナムを離れて、初めて戻ってきた彼女の国なのだから、ここで「これは飲めないわ」とは言えないと覚悟。飲み口のところをティッシュペーパー(持参)で拭いたら少し黒いのがはげたので、そこから飲んだ。ベスに「ティッシュいる?」と聞いたら「ノー・サンキュー!」と言って、なんときれいに拭いた小さなおもちゃみたいなスプーンで飲んでいるので思わず微笑んでしまった。
  一緒に行ったグループの私たちを除いた4人は全員が科学者なので、蚊に刺されることとか、下痢をしないようにということとか、きちんと対応していた。それが突然ランがその衛生観念から離れて、何も言わずに衛生的とは言えない料理を食べ始めたので、ちょっと驚いたけれど、彼女が9歳のときに離れた自分の国に愛着を感じたのと、この国を好きになりたかったんだろうなと思う。 フランスの植民地だった国だから、フランスの影響を受けているし、ちょっとしたレストランで飲んだフランスワインはレイがどうしてこんなに安く出せるんだろうと首を傾げるほどの値段で飲むことが出来た。 

  ここで娘と私は帰国する日がやってきた。後のグループは残って自転車に乗ったり、北上して山登りをしたりする予定になっていた。娘の仕事の都合で10日しか休暇が取れないことから、一人で帰すのは心配なので、私が一緒に帰ることにしたのだけれど、内心、いい結論だったとほっとした。
  帰りがまた大変。朝5時に起きてダナングからサイゴンへ飛んだ。サイゴン国際空港(一応)で8時間台北行きを待たなければならない。旅は慣れているので、空港内であちこちのショップを見たりして過ごせばいいと思ったのが大間違い。3時まで通関を通れないという。たった一つローカルの人たちが利用するレストランがあるだけ。幸い冷房が利いているので、そこでうどんやポテトフライ、ビール、コーヒーを飲んでタバコの煙にむせながら4時間を過ごした。二人で旅していたので、おしゃべりに夢中になって、本を読む必要も音楽を聴く必要もなく5時間をこのレストランで過ごせた。 3時間の飛行時間で台北、ここからサンフランシスコ行きへ乗り込んだ。各席にはテレビがなく、ふてくされて眠りこけた。
 ようやくサンフランシスコへ付いたら、ものすごく寒い。そして私の車のバッテリーが上がっていた。さらにいつもと違うパーキング場を使っていたので、帰り道が違って、なんとサンフランシスコ市内に紛れ込んでしまい、娘のアパートにたどり着くまであちこち市内を走り回ってひどく時間がかかった。二人で日本食を食べて機嫌が直り、さて娘をアパートに送ってソノマへ帰ろうと、車のラジオをつけようちょしたら、バッテリーが上がったためにラジオはシャットアウト。コード番号、エラーという文字が出るだけ。音なしで一人で黙々と暗い道を運転してソノマへたどり着いた。
  翌日目が覚めたら、午後の2時だった。 ベトナムの5年後は多分中国を追っているだろう。レイはまたそのころ行って見たいといっているけれど、うーん、私はどうかな?

2006年1月26日木曜日

醸造家になってみたい?

1月26日のクロニカル誌に醸造家希望の素人を応募するという記事が載っていた。アメリカに住んでいられる方はご存知のように、最近のテレビ番組はリアリ ティ・ショーが多い。素人やその分野の専門家でない人が挑戦するというものだ。日本でも有名人がいろんなことにチャレンジしてみるという番組がある。ま あ、似たようなものですね。
   PBS(パブリック・テレビジョン)が The Wine Maker というタイトルで2007年の春からシリーズで放映するという。9月から撮影を始めて自分のラベルでワインを出すまで6人が競うコンテストだ。 この番組の撮影現場はパソ・ロブレスとサン・ルイ・オビスポ。コンテストは栽培、醸造、販売、マーケティングの全てを体験するというもの。 10都市でオーデションが行われる。
2月1日はアトランタ、サンフランシスコは5月2日。パソロブレスとロスアンゼルスでもオーデションが実施される。 候補者は21歳以上、アメリカ市民権、あるいは永住権保持者でなければならない。ワイナリーの従業員、ディストリビューターで働いている人は資格なし。参加者として選ばれてもギャラはなしだけれど、番組参加経費は支払われるという。関心のある方はcasting@doccity.comまでEメールをという ことです。 
  日本にいられる方は残念ながら、参加資格がありませんが、日本でもこういう番組が企画されるといいですね。

2006年1月18日水曜日

抜糸とランチ

片足で松葉杖での移動になれたころ、手術後、2週 間後に手術医、ドクター・ブリッツを訪問。大柄の男性看護士が抜糸を始める。骨の手術部だから頼もしい男性看護士がいるのかなと思って、聞いてみたら、メディカルアシスタントという職業名で今は男性女性はほとんど関係ないという。婦人科では女性アシスタントをリクエストする患者さんもいるけれどということ だった。でも太目の指で抜糸を始めたときは、ちょっと冷や汗が出て、女性看護婦さんが華奢な指で優しく抜糸してくれるのもいいよなと思った。 
  手術前の先生とのミーティングのときに松葉杖とロボットの足みたいなブーツを渡された。鎮痛剤の処方箋をもらって松葉杖とこのブーツを抱えて薬局部へ行ったときには大変だった。ブーツが椅子から転げ落ちたり松葉杖が椅子二つを占領したりで汗をかいた。
こんな大げさなブーツが必要なはずはない。ドクター、ブリッツが間違ったのだろうとたかをくくって返すつもりで持参したのだが、なんとこれを私が履くのだという。履き方を知っているかと聞くので、もちろん知らないといったら、ブーツ担当の男性が来て丁寧には履き方を説明してくれた。4週間はこれを履かなけれ ばならない。1週目は25%の重み、2週間目は50%、3週間目が75、4週間目が100%体重をかけてもいいのだという。25%ってどうやってわかるの かなと思案していると、ブーツ担当のメディカルアシスタントが体重を4で割って、その分を体重計で測って重みをかければいいという。なるほど。ブーツの重 みを量ったら3ポンド。25%というのは、ほとんど軽く足を床に触れる程度だとわかった。片足の松葉杖と両足をついていながら体重をかけられない松葉杖で の歩き方ではちょっと様子が違う。でも両足がつけるとなんとなくほっとした。 
   2週間ぶりの外出だ。レイとランチはWILLI’S のワインバーで食べることにした。メニューがインターナショナルで一皿の量が少なくて味も悪くない。それに少量ずついろんなワインが飲めるのが何よりも嬉しい。ドクター・ブリッツに「もう、ワインを飲んでもいいですよね」と確認を迫る問い方をしたもので、私の仕事を知っているドクターはうつむいたまま、 ノーとはいえないなという感じで「うん、、、、いーいヨ」と言った。 
   私はピノ・ノワールのフライトを、レイはカベルネのフライトをオーダー。 私のフライトはランドマーク(Landmark),ペレリン(Pelerin)、リンマー(Lynmar),ダニエラ(Daniella)の4つ。

ランドマーク Landmark 2003年 Grand Detour

ライプチェリー、なめし皮の香り。ビーツ、軽めのベーコン、バランスのいいワイン。
この生産者のワインは、いつ飲んでも期待がはずれない。安心して飲める。醸造責任者のエリックは腕のいいクラフトマンだと改めて実感。($30)

ペレリン Pelerin 2004年 サンタ・ルシア・ハイランド

スパイス、なめし皮、チョコミント、チェリー、なめらかな口当たり。時間がたつと開いて美味しさが増した。若いカップル(UCデイヴィス校で栽培醸造学を学 んだクラスメート)が設立した小さなワイナリー。2002年にシラー(130ケース)ピノ・ノワール(165ケース)6年間で3750ケース生産を予定。 ブドウ畑は所有しておらず、良質ブドウを買ってワインを生産。カップルの大志が遂げられることを祈る。($30) 

リンマー Lynmar 2002年 Quail Hill

ロシアン・リヴァー・ヴァレーにあるワイナリー。ローズの花びらの香りの背後に森の湿った落ち葉の香り。ちょっと生の酸。長いフィニッシュ。終わりに苦味が感じられるのが残念。
($45)

ダニエラ Daniella,2002年ナパ・ヴァレー
ライプチェリー、スパイス(クローヴ、シナモン)、まろやか。フルーツ(ベリー)の甘味と酸味が程よくフィニッシュもいい。今飲んで美味しいエレガントでス タイリッシュなピノ・ノワール。今までに聞いたことのないワイナリーで、サイトもない。良質のバルクワインを買ってブレンドしたか、良質なブドウ畑を見つけてそこのブドウを買ってこのピノ・ノワールを造ったワイナリーかもしれない。($38) 

   久しぶりに飲むワインに気を取られて、レイがオーダーしたワインをチェックする暇がなかった。 車外の景色はなんとなく春めいて、ブドウ畑の半分以上は剪定が終わっている。萌えるような若緑の下草が目に染みた。

2006年1月4日水曜日

Happy New Year!




皆様 新年おめでとうございます。良いお年をお迎えになりましたか? 私はカリフォルニア原産?のフルーでホリデーシーズンを過ごし、大晦日、元旦は大雨で迎えました。 ク リスマスイブは家族3人でナパヴァレーのセントヘレーナにテラというレストランを持つ曽根さんがサンフランシスコにアメ(雨だと思う)というレストランをオープンしたというので、予約を入れて、出かけるのを楽しみにしていました。ところが3人ともフルーに罹って、クリスマスイブは頭痛、鼻水、くしゃみに咳き、午後3時ころまでは何とか行けるだろうと気力を貫いていたのですが、遂に3人とも「これはだめだわ」観念して、泣く泣く予約をキャンセル。ソノマでの出前というとメリーピッツしかなく、サラダとパスタを注文してなんとも情けないクリスマスイブとなってしまいました。

  翌日、クリスマスはランスとサンディ の家に招かれていたので何とか出かけました。1976年のサロンのシャンパン(マグナム)で乾杯。泡はちょっと弱まっていましたが、アーモンドの香りと シャルドネの味がしっかりと残っているのが印象的でした。前菜はシャトーヌフ・デュ・パプ、97年ピノ・ノワールやローヌの赤、ジンファンデルを飲んで、 いよいよ席についてのディナー。亀のスープとドイツのリースリング、最高の出来のローストビーフ(1ヶ月熟成した牛肉だそう)を持参した1995年のポー ルホブのカベルネでいただきました。ポールホブはどんな風に熟成しているかなと期待していたのですが、やや期待はずれでした。涼しい年の印象を残してそのまま凍結質得るような幹事でのびやかな熟成間はありませんでした。2000年代の彼の造りとは多分違うと思うので、2000年代のポールホブのカベルネの 熟成を予測することはできません。デザートのころには、私はもう目を開けていられなくなって、ベッドルームでちょっと横になるつもりが寝てしまって、帰る よと娘に起こされる始末。その翌日、26,27,28日と連続のパーティ、29,30、31日と元旦のパーティ用の自己流おせち料理作りに没頭。1月4日の今日、よくぞ持ったものだわと感心しています。

  31日はランスの家で恒例のニューオリンズスタイルのニュー・イヤー・イブのディナー。ランスとサンディの家の素晴らしい庭は、前夜の大雨で丘から流れてきた激流ですっかり破壊されていました。 ニュー オリンズのスパイスを使ってロブスター、サヤインゲン、とうもろこし、にんにくなどをまるごと大きな鍋でゆでる。それをビニールと新聞を敷いたテーブルに広げて、手で裁いてべる。食べ終わると新聞をくるくると巻いてゴミ箱へぽい。きれいなテーブルになったところで、あらためて赤ワイン、チーズ、デザート などを食べながら、新年を迎えるというのが私たちの慣わしなのです。この夜のゲストは13人。よく気心の知れた仲間たちで本当に楽しい。ハーフムーンベイ に住む友人が作ったチョコレートムースは最高に美味しかったあ!このカップルはドイツ系だそうで、ドイツの習慣だということで、秒読みが始まるとテレビの 前で一口サイズに切ってあるニシンの酢漬けを爪楊枝に刺して、口元に持って待機。これをするとお金の心配がなくなるのだというので、私もあやかろうと食べ ることにしました。「3、2、1、ハピー・ニュー・イヤー!」でばっとニシンの酢漬けを口に入れました。甘酸っぱくて悪くない。隣でニシンの酢漬けなど口 にしたことのないリサが「私も」と一緒にばっと口に入れて、「ギャー!まずーい!」と叫んだので大笑い。1996年のドンペリニョンで乾杯。きめの細かい 泡、イースティで、それでいてフレッシュで軽やかなシャンパンでした。

  2006 年1月1日も大雨。カレラのジャシュはホリスターの家から参加する予定だったけれど、「僕は今日はどこへもでかけないことにした」と電話がかかってきまし た。バークレーの友人は嵐は終わって雨降りのようだから行くよと電話があったのですが、1時間後に途中で道路が閉鎖になったから断念して引き返すという電話。グレン・エレンに住む2カップルは床まで水が浸水して、泥だらけで家具の移動にてんてこ舞いで行けないと電話。35人がやってくるはずだったのが、な んと来客予定の10人が来られなくなってしまいました。 それでも25人が集まって、日本酒、シャンパン、白ワイン、赤ワイン、ビールと、みんなたくさん食べてたくさん飲んでました。まめまめしく働くようにと黒豆 を例年通り白人の友達全員に強制的に食べさせました。驚いたのは、昆布巻きが好評だったことです。毎年、友人たちは私のおせち料理に馴れていくようで、嬉 しい気分です。「僕の大好きな1月1日の過ごし方なんだ」と大男が嬉々として、私の料理を食べてくれるので、くすぐったい気分です。 

  ソノマ、ナパを始め、数カウンティが洪水の被害を受けました。カリフォルニアは日本と違って台風が毎年来るという気候ではないので、集水溝の設置などがきちんとされていないので、大雨が降ると小さな川まで氾濫してしまうのです。 今は、損害を受けた家の修理、洗浄に関心が集まっているので、ブドウ畑の被害の報告は後になるでしょう。今のところ、大きな被害を受けたワイナリーのニュースは耳に入っていません。 
というわけで新年を祝う余裕もなかった人たちが多く出た2006年の始まりだでした。 
  そして私事なのですが、1月5日に私は外反母趾の手術を受けることになっています。昨日、詳しく先生が説明してくれたのですが、右足なので、なんと2ヶ月間 は車の運転ができないというのです!イベントやインタビューに今までのように出かけられなくなるので、ちょっとパニック気味です。「インタビューしたい人に家に来てもらえばいいよ」とレイは涼しい顔で言います。 

今年もよろしくお願いします。

2005年12月8日木曜日

ホリデーシーズンの集い (Women for Winesense)

昨夜 Women for Winesenseというグループ(組織)のホリデーの集いに行ってきた。15年ほど前だと思うが、ナパ・ヴァレーのワイナリーの女性オーナーや主要ポス トについている女性たちを中心にワイン業界で働いてる女性たちで組織したもの。その後、支部が全米、多分ヨーロッパにも出来て、会員の数は相当数だ。 
昨夜はソノマ・ナパ支部の会合だった。数年前に一度、ディナーに出席して以来、トンとご無沙汰だったのだけど、場所がソノマ・ミッション・イン・リゾートホテルで、自宅から車で5,6分のところだったので、どんな風なものかなと思ってチャリティ組織FISHに寄付する缶詰を抱えて一人で出かけた。缶詰等をチャリティ団体に寄付するのは、ホリデーシーズンの慣習なのだ。 

  行ってみて驚いた。若いおしゃれな女性がたくさんいるのだ。ワイン業界はフレンドリーで地味、堅実派というタイプの女性が働いていたのが、今は何と華やかでおしゃれな若い女性がたくさん働いているのだ。閑散としていたナパの町が今ではワインバーもレストランもいつも混んでいるのは、こういう若い人たちが働き始めたからなのだろう。 
でも残念なことにみんなスノブだった。こういう会合だと視線が合うと「ハーイ!」といって微笑みあうのが慣習だったのだが、この夜の会合の人たちは、人を信用しないというきつーい目つきでじっと見つめて、それから目をはずしてツンだった。数人のグループで来ていて、そのグループの人としか話をしないのだ。驚き! 
  そういうマナーに驚いていた女性と出会った。やっぱり一人で来ていたワインラベルのデザイン会社に勤務しているキャサリーンだ。興味深いのは彼女はカナダ出身で2 カ国間の文化(私から見ると日本とアメリカよりはずうっと近いけれど)を理解したうえで、いろいろ観察していることだった。彼女が使った言葉 “clique(辞書では党派、派閥,と訳しているけど、みんなが使っているのとはちょっと違う )”というのが、状況を的確に表現していた。
5年ほど前に出席したときは、同じ業界に働いている仲間という感じで「どんな仕事をしているの?」とみんな打ち解けていた。それが今回は全然様子が違う。娘が高校生のときに女の子はクリッキーだといっていたのを覚えている。これは10代の子の世界と思ったけれど、どっこい、そうではないことに気が付いた次第。

   キャサリーンが、今のナパはワイナリーで働いているというのは、いい職業についているというので、みんなつんとしているのだという。なるほどね。もう、ファーマー(農家)意識は完全にすたれたということなのだろう。20年前の日本はcliquishな社会だった。今でもそうなのかしら? 
  出されていた6つのワインの中で印象に残ったワインの一つがグレッグ・ノーマン(Greg Norman)のサンタ・バーバラの2004年ピノ・ノワールだ。一口飲んだときは、ちょっと粗野なピノ・ノワールだなと思ったのだけど、空気に触れる と、びっしり詰まったフルーツ味が浮上してきて「悪くないじゃない」と思った。20ドルくらいかなと思って価格を聞いたら、15ドルという。15ドルなら グッド・ヴァリューだと思う。 グ レッグ・ノーマンはオーストラリア人の有名なゴルファーだそうで、カリフォルニアのアーノルド・パーマーのオーストラリア版なのだろう。どちらもフレンドリー価格の飲みやすいワインを出している。ノーマンは、カリフォルニア、そしてもちろんオーストラリアのワインも出している。

  もう一つの発見は、デザートとデザートワインだ。私はデザートは砂糖の入っていないコーヒーか紅茶と一緒という食べ方をしているので、甘いデザートワインに 甘いデザートというのは、甘さがダブルでちょっときついなと思っていたのだけれど、ビスコティとデザートワインが美味しかったので、ちょっと驚いた。半面にだけホワイトチョコレートがかかっているビスコティとエヴェレット・リッジ(Everett Ridge)のレイトハーヴェスト・ジンファンデルの組み合わせだった。エヴェレット・リッジのレイとハーヴェスト・ジンファンデルは、どちらかというと 濃いジンファンデルのジュースにアルコールという感じなのだけれど、しつこくなくて、ホワイトチョコレートの味ととってもよくマッチしていた。もっともイタリアではビスコティと甘口ワインの組み合わせは伝統的なのだから、驚くことはないのだろうね。

2005年10月1日土曜日

突然、ラスベガス

突然、レイが明後日から一泊でラスヴェガスへ行こうという。10月28日が彼の誕生日だったことと2005年のハーヴェストがほぼ終わりに近づいたこと、スイートが1泊100ドルと格安だったことがその理由。私は20年以上カリフォルニアに住んでいるけれど、ラスヴェガスへは行ったことがなかった。レイも 40年ぶりだという。一泊ならさっと行ってさっとおのぼりさんをすればいいし、気に入ったらあらためてまた行けばいいから面白いかもというので、行くことに決定。 
   朝9時ころにサンフランシスコの空港へ着いた。長い列に加わる。 
「危険物は持たないこと、携帯電話はスイッチを切るように」
「も う一度繰り返す。危険物は持たないこと、ナイフ、云々」と大柄な男性担当官が大声で繰り返す。スピーカーなし、地声なのがすごい。まだ眠気が完全に取れて いない頭に大声が響く。「もうわかったってば!」と怒鳴り返したいのをぐっと我慢する。行列の人々はうんざりした表情を浮かべるか苦笑するかのどちらか だった。

   アメリカは9月11日のテロのタワー攻撃以来本当に変わってしまった。旅へ出るときは、まず長列を作ってこの声を聞きながらのろのろと前進、ジャケットと靴 を脱いで、荷物のレントゲン?チェックの洗礼を受けなければならない。
一度などは、思わず両手を挙げてチェックをするゲートを通過したら、筋肉隆々の頭が てかてかに光っている黒人の検査員が「ホールドアップすることはないでしょう」と言う。
   昨年の夏に東南アジアを回ったときのこと。カリフォルニアでは必ず 靴を脱がなければならないので、当たり前と思って靴を脱いでたら、担当のアジア人たちは恐怖におののいて「何をしてるの?」という顔で私を見るではない か。レイが「アメリカ以外では誰も靴なんか脱がないんだよ」と囁く。
そうそう、ニューヨークでは、女性が「危険物は持たないこと」とスピーカーで叫び続けていた。この仕事を仰せつかって、今までなかったパワーを感じて意気軒昂であるらしい。その女性が私をじっと見て、「切符を手にしているそこの彼女、切符をなくすることがあるからバックに入れなさい。トラスト・ミー」と言う。「えっ、私のこと?あんたに関係ないんじゃないの」と言いたいところをぐっと抑えて、(最近、私はぐっと抑えることが多くなったというか抑えられるようになった)聞こえないふりをした。 

   話を元に戻して、砂漠に作られた巨大な人工都市。飛行機の窓から眺めると、家々がきちんとまるで模型のように並んでいる。飛行場にもスロットマシンが並んで いる。さすがはラスヴェガス!なんて変なところで感心。シャトルでホテル、ヴェネチアンへ行く途中、パリの凱旋門が見えた。「何で砂漠の真ん中に凱旋門 が?」む、む、むと口元が緩む。   天井壁画がびっしりのホテルへ着く。観光客で賑わうゴンドラまであるヴェニスの運河?のあるセクションへ行ってみる。人工空は雲が(空が?)動くようになっ ている。夕方のヴェニスなのだ。レイが「ちょっと臭いところまでヴェニスの運河だな」と笑う。イタリア資本も入って作られたこのセクションにはイタリア人の人たちがたくさん働いていた。「見て、ナヨミと3人でランチを食べたヴェニスのホテル前のカフェがここにあるじゃないか」とまた冗談を飛ばす。 どこのホテルのロビーもゲーム機とテーブルがずっりと並んでいる。タバコの煙でむせそうな大きなゲームホールを通過しないとチェックインカウンターまで行き着かないように設計されている。 

   私は不調法でカード等のゲームの遊び方を知らないし、1ドルとか50セントのスロットマシーンは金食い機のように楽しむまもなくあっという間にお金が消えていくし、ちっとも楽しくない。退屈。 
  このホテルだけでも19のレストランが入っているというので、大いに期待したのだが、サンフランシスコとロスアンゼルス、ナパから進出しているレストランが 多かった。ブション、ピノ・ブラン、パストリアとかロスアンゼルスのイタリアレストラン、ヴァレンティーノのとか。値段がナパやサンフランシスコで食べる より3倍もするし、地元で食べられるから、あまり魅力がない。 
   巨大な家事のホテルが並ぶ地区のメイン道路をショーを見に行くために歩いた。エジプト、ニューヨーク、パリとテーマが決まったカジノ&ホテルが続く。イタリアのトレビの泉もあるしエッフェル塔もある。不可思議な気持ち。
「イタリア人がトレビの泉をラスヴェガスで見たらなんて思うのかな?」
「ここのは真っ白できれいだから、自分たちのは黒ずんでいて恥ずかしいと思うよ」
とレイがジョークを飛ばす。

ホ テルへ戻ってラウンジがなかなかいいとパンフレットに書いてあったTAOというアジア系の料理を出すバーへ行ってみた。大きな仏像がでんと飾ってある。赤いライトであんまりよく中が見えない。わさび味の大豆のおつまみが甘いカクテルに良くあったので、むしゃむしゃ。それにしても仏教徒でもない人たちが阿弥 陀仏をインテリアデザインの一つとして使うのが興味深い。キリストが十字架を背負っている像をバーのインテリアに使ったら、キリスト教徒の人はなんていう のだろうなんてふと考えた。そういえば日本へ行ったら若い女性やテレビに出ていた女性が大きな十字架のペンダントをしていた。アクセサリーとして素敵だと 持っているからだと思う。アメリカの信心深いキリスト教徒の人が見たら、日本の若い女性でもこんなに信心深いキリスト教徒がいるのね、なんて感激するかも 知れない。クロス(十字架)をアクセサリーだといって使っているアメリカ人はいないからだ。 

   というわけで、あんまり美味しいワインも飲めまず、レイはビールばかり、私は甘ったるいジュースがたくさん入ったカクテルを飲む羽目になった。規模だけは本格的な凱旋門や、スフインクス、タワーや彫刻、ハイテクの大型映像を眺めながら、なるほどねと(何になるほどなのかわからないけれど)、思いながら帰途に着いた。 レイが「ソノマは緑が多すぎるヨ。何の騒音もないし静か過ぎる」と最後のジョーク。 またラスヴェガスに行くとしたら女友達とショーを見に行くかもしれないが、レイはラスヴェガスに行くことはまずないだろう。

2005年9月1日木曜日

チャリティーのジャズコンサート

ハリケーン・カタリーナがジャズの町ニューオリンズを通過、多くの人が亡くなり、大きな被害があったことは、日本でも大きく報道された。ちょうど実家に滞在 していた私は連邦政府の支援の送れ、アメリカ社会の激しい貧富の差が暴露されたことなどを日本の報道を聞いたり読んだりしていた。ソノマに帰ってきて、ア メリカでも同じ報道だったかと聞いたら、ほぼ同じだということだった。 世界中の人が被害者支援の資金を寄付していたが、私の住むソノマの町でも救済支援のチャリティがあちこちで開かれた。
   その一つとしてソノマのジャズソサエティがニューオリンズのミュージシャンのカップルを招待して、チャリティコンサートを開催。妻が黒人のシンガーで夫は白人のギターリスト。息の合ったジャズの真髄を味あわせてくれる。楽譜にしたがって歌いギターを弾くだけではなくて、二人が歌とギターで競い合いながら即興 を交えて舞台を繰り広げるのだ。 

   キムとビルのカップルは数年前にソノマへコンサートツアーでやってきている。婚約中の熱々カップルで、彼女はとってもシャイだった。この二人のニューオリン ズの家がハリケーンで破壊されてしまったのだ。今回は2歳になる女の子を連れての訪問だった。ジャズソサエティがこの二人のためのチャリティとして、二人 を招きホテルを提供、チケットの売上げ、募金を二人に寄付するという企画だった。 
   キムの優しかった声に深みと迫力が加わっていた。ニューオリンズで注目を浴びているアーティストで、賞ももらっているという。 会場は小さくもなく大きくもないので、ギターと声で心を通わせて作り上げるニューオリンズの生粋のジャズをまじかに堪能できた。
「ニューオリンズは必ず復活します!」と彼女は宣言。大きな拍手を受けてキムは歌いながら泣き出してしまった。 

   ワイン産地、ソノマでのコンサートだから、当然なのだけれど、お嬢さんの教育資金にしてほしいというので、即興のワインオークションが開かれた。 ボトルを見せながら生産ワイナリーの名前と品種を読み上げ出すや否や、私の横に座っているジョンが「100ドル!」と大きな声で叫ぶ。私はどんなワインかを知ってから手をあげようとしているのに、わからないままに競売が進んでいく。 
「ジョン、もう少し待ってから声を出してよ、もう!」と私。 
「こういうのは勢いがよくなくちゃ!」とジョン。
それでも1.5Lの85年のローレル・グレンが出たときは、私はそれが飲みたくて200ドルというのを聞いてさっと手をあげた。そうしたら即席のオークショ ニアを務めていた友達が吹き出して、「自分のだんなが造ったワインをオークションで競ってるなんてはじめてみたよ」と大声で言うものだから、みんながげらげら。レイが後ろで「僕の懐がいつも貧しいわけがこれでわかっただろう」とランドムリッジ・ワイナリーのビルに言っているのが聞こえた。振り返ると、ビル が納得したような顔で笑っているではないか。私は「あれ?それって不思議なことなんだっけ?」とちょっと躊躇している間に他の人の手に渡ってしまった。 

   友人のランスの家にはニューオリンズのアーティスト、エリックが3ヶ月滞在するという。大きなニュースにはならないけれど、個人レベルで災害にあった人たちをさりげなく助けている人々が大勢いる。