2005年12月8日木曜日

ホリデーシーズンの集い (Women for Winesense)

昨夜 Women for Winesenseというグループ(組織)のホリデーの集いに行ってきた。15年ほど前だと思うが、ナパ・ヴァレーのワイナリーの女性オーナーや主要ポス トについている女性たちを中心にワイン業界で働いてる女性たちで組織したもの。その後、支部が全米、多分ヨーロッパにも出来て、会員の数は相当数だ。 
昨夜はソノマ・ナパ支部の会合だった。数年前に一度、ディナーに出席して以来、トンとご無沙汰だったのだけど、場所がソノマ・ミッション・イン・リゾートホテルで、自宅から車で5,6分のところだったので、どんな風なものかなと思ってチャリティ組織FISHに寄付する缶詰を抱えて一人で出かけた。缶詰等をチャリティ団体に寄付するのは、ホリデーシーズンの慣習なのだ。 

  行ってみて驚いた。若いおしゃれな女性がたくさんいるのだ。ワイン業界はフレンドリーで地味、堅実派というタイプの女性が働いていたのが、今は何と華やかでおしゃれな若い女性がたくさん働いているのだ。閑散としていたナパの町が今ではワインバーもレストランもいつも混んでいるのは、こういう若い人たちが働き始めたからなのだろう。 
でも残念なことにみんなスノブだった。こういう会合だと視線が合うと「ハーイ!」といって微笑みあうのが慣習だったのだが、この夜の会合の人たちは、人を信用しないというきつーい目つきでじっと見つめて、それから目をはずしてツンだった。数人のグループで来ていて、そのグループの人としか話をしないのだ。驚き! 
  そういうマナーに驚いていた女性と出会った。やっぱり一人で来ていたワインラベルのデザイン会社に勤務しているキャサリーンだ。興味深いのは彼女はカナダ出身で2 カ国間の文化(私から見ると日本とアメリカよりはずうっと近いけれど)を理解したうえで、いろいろ観察していることだった。彼女が使った言葉 “clique(辞書では党派、派閥,と訳しているけど、みんなが使っているのとはちょっと違う )”というのが、状況を的確に表現していた。
5年ほど前に出席したときは、同じ業界に働いている仲間という感じで「どんな仕事をしているの?」とみんな打ち解けていた。それが今回は全然様子が違う。娘が高校生のときに女の子はクリッキーだといっていたのを覚えている。これは10代の子の世界と思ったけれど、どっこい、そうではないことに気が付いた次第。

   キャサリーンが、今のナパはワイナリーで働いているというのは、いい職業についているというので、みんなつんとしているのだという。なるほどね。もう、ファーマー(農家)意識は完全にすたれたということなのだろう。20年前の日本はcliquishな社会だった。今でもそうなのかしら? 
  出されていた6つのワインの中で印象に残ったワインの一つがグレッグ・ノーマン(Greg Norman)のサンタ・バーバラの2004年ピノ・ノワールだ。一口飲んだときは、ちょっと粗野なピノ・ノワールだなと思ったのだけど、空気に触れる と、びっしり詰まったフルーツ味が浮上してきて「悪くないじゃない」と思った。20ドルくらいかなと思って価格を聞いたら、15ドルという。15ドルなら グッド・ヴァリューだと思う。 グ レッグ・ノーマンはオーストラリア人の有名なゴルファーだそうで、カリフォルニアのアーノルド・パーマーのオーストラリア版なのだろう。どちらもフレンドリー価格の飲みやすいワインを出している。ノーマンは、カリフォルニア、そしてもちろんオーストラリアのワインも出している。

  もう一つの発見は、デザートとデザートワインだ。私はデザートは砂糖の入っていないコーヒーか紅茶と一緒という食べ方をしているので、甘いデザートワインに 甘いデザートというのは、甘さがダブルでちょっときついなと思っていたのだけれど、ビスコティとデザートワインが美味しかったので、ちょっと驚いた。半面にだけホワイトチョコレートがかかっているビスコティとエヴェレット・リッジ(Everett Ridge)のレイトハーヴェスト・ジンファンデルの組み合わせだった。エヴェレット・リッジのレイとハーヴェスト・ジンファンデルは、どちらかというと 濃いジンファンデルのジュースにアルコールという感じなのだけれど、しつこくなくて、ホワイトチョコレートの味ととってもよくマッチしていた。もっともイタリアではビスコティと甘口ワインの組み合わせは伝統的なのだから、驚くことはないのだろうね。

2005年10月1日土曜日

突然、ラスベガス

突然、レイが明後日から一泊でラスヴェガスへ行こうという。10月28日が彼の誕生日だったことと2005年のハーヴェストがほぼ終わりに近づいたこと、スイートが1泊100ドルと格安だったことがその理由。私は20年以上カリフォルニアに住んでいるけれど、ラスヴェガスへは行ったことがなかった。レイも 40年ぶりだという。一泊ならさっと行ってさっとおのぼりさんをすればいいし、気に入ったらあらためてまた行けばいいから面白いかもというので、行くことに決定。 
   朝9時ころにサンフランシスコの空港へ着いた。長い列に加わる。 
「危険物は持たないこと、携帯電話はスイッチを切るように」
「も う一度繰り返す。危険物は持たないこと、ナイフ、云々」と大柄な男性担当官が大声で繰り返す。スピーカーなし、地声なのがすごい。まだ眠気が完全に取れて いない頭に大声が響く。「もうわかったってば!」と怒鳴り返したいのをぐっと我慢する。行列の人々はうんざりした表情を浮かべるか苦笑するかのどちらか だった。

   アメリカは9月11日のテロのタワー攻撃以来本当に変わってしまった。旅へ出るときは、まず長列を作ってこの声を聞きながらのろのろと前進、ジャケットと靴 を脱いで、荷物のレントゲン?チェックの洗礼を受けなければならない。
一度などは、思わず両手を挙げてチェックをするゲートを通過したら、筋肉隆々の頭が てかてかに光っている黒人の検査員が「ホールドアップすることはないでしょう」と言う。
   昨年の夏に東南アジアを回ったときのこと。カリフォルニアでは必ず 靴を脱がなければならないので、当たり前と思って靴を脱いでたら、担当のアジア人たちは恐怖におののいて「何をしてるの?」という顔で私を見るではない か。レイが「アメリカ以外では誰も靴なんか脱がないんだよ」と囁く。
そうそう、ニューヨークでは、女性が「危険物は持たないこと」とスピーカーで叫び続けていた。この仕事を仰せつかって、今までなかったパワーを感じて意気軒昂であるらしい。その女性が私をじっと見て、「切符を手にしているそこの彼女、切符をなくすることがあるからバックに入れなさい。トラスト・ミー」と言う。「えっ、私のこと?あんたに関係ないんじゃないの」と言いたいところをぐっと抑えて、(最近、私はぐっと抑えることが多くなったというか抑えられるようになった)聞こえないふりをした。 

   話を元に戻して、砂漠に作られた巨大な人工都市。飛行機の窓から眺めると、家々がきちんとまるで模型のように並んでいる。飛行場にもスロットマシンが並んで いる。さすがはラスヴェガス!なんて変なところで感心。シャトルでホテル、ヴェネチアンへ行く途中、パリの凱旋門が見えた。「何で砂漠の真ん中に凱旋門 が?」む、む、むと口元が緩む。   天井壁画がびっしりのホテルへ着く。観光客で賑わうゴンドラまであるヴェニスの運河?のあるセクションへ行ってみる。人工空は雲が(空が?)動くようになっ ている。夕方のヴェニスなのだ。レイが「ちょっと臭いところまでヴェニスの運河だな」と笑う。イタリア資本も入って作られたこのセクションにはイタリア人の人たちがたくさん働いていた。「見て、ナヨミと3人でランチを食べたヴェニスのホテル前のカフェがここにあるじゃないか」とまた冗談を飛ばす。 どこのホテルのロビーもゲーム機とテーブルがずっりと並んでいる。タバコの煙でむせそうな大きなゲームホールを通過しないとチェックインカウンターまで行き着かないように設計されている。 

   私は不調法でカード等のゲームの遊び方を知らないし、1ドルとか50セントのスロットマシーンは金食い機のように楽しむまもなくあっという間にお金が消えていくし、ちっとも楽しくない。退屈。 
  このホテルだけでも19のレストランが入っているというので、大いに期待したのだが、サンフランシスコとロスアンゼルス、ナパから進出しているレストランが 多かった。ブション、ピノ・ブラン、パストリアとかロスアンゼルスのイタリアレストラン、ヴァレンティーノのとか。値段がナパやサンフランシスコで食べる より3倍もするし、地元で食べられるから、あまり魅力がない。 
   巨大な家事のホテルが並ぶ地区のメイン道路をショーを見に行くために歩いた。エジプト、ニューヨーク、パリとテーマが決まったカジノ&ホテルが続く。イタリアのトレビの泉もあるしエッフェル塔もある。不可思議な気持ち。
「イタリア人がトレビの泉をラスヴェガスで見たらなんて思うのかな?」
「ここのは真っ白できれいだから、自分たちのは黒ずんでいて恥ずかしいと思うよ」
とレイがジョークを飛ばす。

ホ テルへ戻ってラウンジがなかなかいいとパンフレットに書いてあったTAOというアジア系の料理を出すバーへ行ってみた。大きな仏像がでんと飾ってある。赤いライトであんまりよく中が見えない。わさび味の大豆のおつまみが甘いカクテルに良くあったので、むしゃむしゃ。それにしても仏教徒でもない人たちが阿弥 陀仏をインテリアデザインの一つとして使うのが興味深い。キリストが十字架を背負っている像をバーのインテリアに使ったら、キリスト教徒の人はなんていう のだろうなんてふと考えた。そういえば日本へ行ったら若い女性やテレビに出ていた女性が大きな十字架のペンダントをしていた。アクセサリーとして素敵だと 持っているからだと思う。アメリカの信心深いキリスト教徒の人が見たら、日本の若い女性でもこんなに信心深いキリスト教徒がいるのね、なんて感激するかも 知れない。クロス(十字架)をアクセサリーだといって使っているアメリカ人はいないからだ。 

   というわけで、あんまり美味しいワインも飲めまず、レイはビールばかり、私は甘ったるいジュースがたくさん入ったカクテルを飲む羽目になった。規模だけは本格的な凱旋門や、スフインクス、タワーや彫刻、ハイテクの大型映像を眺めながら、なるほどねと(何になるほどなのかわからないけれど)、思いながら帰途に着いた。 レイが「ソノマは緑が多すぎるヨ。何の騒音もないし静か過ぎる」と最後のジョーク。 またラスヴェガスに行くとしたら女友達とショーを見に行くかもしれないが、レイはラスヴェガスに行くことはまずないだろう。

2005年9月1日木曜日

チャリティーのジャズコンサート

ハリケーン・カタリーナがジャズの町ニューオリンズを通過、多くの人が亡くなり、大きな被害があったことは、日本でも大きく報道された。ちょうど実家に滞在 していた私は連邦政府の支援の送れ、アメリカ社会の激しい貧富の差が暴露されたことなどを日本の報道を聞いたり読んだりしていた。ソノマに帰ってきて、ア メリカでも同じ報道だったかと聞いたら、ほぼ同じだということだった。 世界中の人が被害者支援の資金を寄付していたが、私の住むソノマの町でも救済支援のチャリティがあちこちで開かれた。
   その一つとしてソノマのジャズソサエティがニューオリンズのミュージシャンのカップルを招待して、チャリティコンサートを開催。妻が黒人のシンガーで夫は白人のギターリスト。息の合ったジャズの真髄を味あわせてくれる。楽譜にしたがって歌いギターを弾くだけではなくて、二人が歌とギターで競い合いながら即興 を交えて舞台を繰り広げるのだ。 

   キムとビルのカップルは数年前にソノマへコンサートツアーでやってきている。婚約中の熱々カップルで、彼女はとってもシャイだった。この二人のニューオリン ズの家がハリケーンで破壊されてしまったのだ。今回は2歳になる女の子を連れての訪問だった。ジャズソサエティがこの二人のためのチャリティとして、二人 を招きホテルを提供、チケットの売上げ、募金を二人に寄付するという企画だった。 
   キムの優しかった声に深みと迫力が加わっていた。ニューオリンズで注目を浴びているアーティストで、賞ももらっているという。 会場は小さくもなく大きくもないので、ギターと声で心を通わせて作り上げるニューオリンズの生粋のジャズをまじかに堪能できた。
「ニューオリンズは必ず復活します!」と彼女は宣言。大きな拍手を受けてキムは歌いながら泣き出してしまった。 

   ワイン産地、ソノマでのコンサートだから、当然なのだけれど、お嬢さんの教育資金にしてほしいというので、即興のワインオークションが開かれた。 ボトルを見せながら生産ワイナリーの名前と品種を読み上げ出すや否や、私の横に座っているジョンが「100ドル!」と大きな声で叫ぶ。私はどんなワインかを知ってから手をあげようとしているのに、わからないままに競売が進んでいく。 
「ジョン、もう少し待ってから声を出してよ、もう!」と私。 
「こういうのは勢いがよくなくちゃ!」とジョン。
それでも1.5Lの85年のローレル・グレンが出たときは、私はそれが飲みたくて200ドルというのを聞いてさっと手をあげた。そうしたら即席のオークショ ニアを務めていた友達が吹き出して、「自分のだんなが造ったワインをオークションで競ってるなんてはじめてみたよ」と大声で言うものだから、みんながげらげら。レイが後ろで「僕の懐がいつも貧しいわけがこれでわかっただろう」とランドムリッジ・ワイナリーのビルに言っているのが聞こえた。振り返ると、ビル が納得したような顔で笑っているではないか。私は「あれ?それって不思議なことなんだっけ?」とちょっと躊躇している間に他の人の手に渡ってしまった。 

   友人のランスの家にはニューオリンズのアーティスト、エリックが3ヶ月滞在するという。大きなニュースにはならないけれど、個人レベルで災害にあった人たちをさりげなく助けている人々が大勢いる。

2005年6月25日土曜日

ピザパーティ




ナパにあるワインリー、ヘイヴンズのオーナー・醸造家、マイケルからピッツアを焼く釜を作ったので、夕食にいらっしゃいと電話があった。キャサリーンとマイ ケルは我が家の犬、7月末に亡くなったゴールデンリトリーバー、サミーの父親と弟の犬の持ち主なので、なんだか親類のような気持ちなのだ。 
   サミーのお母さんはフロッグス・リープのジョンの前妻ジュリーの犬だ。10年前、日本からの訪問者たちとフロッグス・リープ・ワイナリーを訪れて、芝生に敷 いたブランケットに座ってピクニックを楽しんでいたときに7,8匹の子犬が耳をぱふぱふさせながらパーッと私たちめがけて走ってきた。一種の演出だった。 そのうちの1匹が私の膝に乗って、背伸びをして顔をなめた。思わず「うちの子になる?」と聞いたのを耳にしたジョーンが「大切にしてくれるかい?」と電話 をくれたときに、「もちろん!」と叫んだ。そして本当に美しい犬が我が家の家族になった。10歳になったばかりのサミーは7月の末、朝早に眠るように逝っ た。

   数年前に、マイケルとキャサリーンがサミーのお父さんと弟を連れて我が家へやってきた楽しい思い出がある。そして昨年、我が家へ二人がやってきたときには、 サミーの弟もお父さんももう亡くなっていた。サミーを見て「お父さんと同じ顔をしている」と、亡くなった愛犬を思い出してマイケルの目が潤んでいた。今の私と同じだ。 

   ピッツア・ディナーに招かれた日は、我が家にスウェーデンからワインライター、エンブレ・デューズが来ていたので一緒に行くことになった。マイケルのお宅には マイクロオキシジェネレーションの会社のテリーとボルドーのRAVZANの醸造家、モーレが来ているというので、国際的なピッツアーパーティとなった。

   約 14,5年前のことだ。マデランへ行った。試飲させてもらったマデランの赤ワインはタンニンがかなり強くて、きれいなフルーツが隠れてしまっていた。その タンニンをソフトにするための器具(他にも効果があるけれど)として、パトリックが、マデランの自宅の納屋の二階で実験をしているのを見せてもらった。そのパトリックのアイデアは大当たりでいまや世界中から器具の買い手が現れて引っ張りだこ。おまけに競争相手の会社まで現れている。
すさまじい運転振りでマ デランを案内してくれたパトリックが、マイクロオキシジェネレーションの生みの親なのだ。テリーがカリフォルニアのセールスを担当していて、数ヶ月に何度 かずつ、フランスからカリフォルニアにやってくる。テリーが大学を卒業したばかりのころ、ワイン生産の体験をしたいといってカリフォルニアへやってきた。 ハーベストが終わって、ソノマ、ナパのワイナリーを回りたいというので、長髪でオートバイに乗ってやってきたテリーに、当時借りていたアパート兼オフィス に泊めてあげたら、お礼としてオフィスをきれいに掃除してくれた好青年だった。この日、テリーと一緒にディナーにやってきたモーレはボルドーの RAVZANでこの器具を86機使っているという。

   スウェーデンのライター、エンブレはなんと国会議員でもあるという。モデレート・パーティ(穏健派)に属するリベラルコンサーバティヴ(保守的でありながら リベラル?)で、ゲイ同士の結婚とか、妊娠中絶に関しては賛成なんだそうだ。スウェーデンは社会主義の国なので、輸入するワインは政府のワイン担当機関の 許可を得なければいけない。そういう国で国会議員であってワインライターというのは、どういうことなのだろう。でも彼はとっても楽しそうで、ワインに誠実 だった。 
ベランダのテーブルにオリーブ、パン、チーズ、イタリアの生ハムなどと一緒に2つの白ワインが並べられた。 

2004年、Havens のアルバリーニョ
カリフォルニアの白とは思えないきれいな酸味とピュアーなフルーツ。「日本食に良くあうね」とエンブレが私を見てにっこり。 

1999年、Havensシャルドネ、マグナム
へイヴンズではもうシャルドネは生産していない。黄金色、ピーチ、アプリコット、ピーナッツオイル。14年たったシャルドネは今が飲み頃だった。「カリフォ ルニアのシャルドネは長くもたないといったのは、だれだっけ?」とキャサリーン。ボルドーの醸造家、モーレが「トレ・ボン(とてもいい)」と言った。 ピッツアの釜に入れた火が赤くなるのを待っている間、レイとマイケルはひと泳ぎ。カリフォルニアのライフスタイルだ。泳がない人たちのためにキャサリーンが赤ワインを持ってきてくれた。 

2002年Havens メルロー
ブラックベリーなどの黒系フルーツ。味わいにフルーツの核がある。なめらかで美味しい酸がたっぷり。酸はもう少しこなれるまで待ちたい。 「ピッツアが焼けたよ!」とマイクが叫ぶ。いそいそとダイニングテーブルに向かう。フレッシュで新鮮な素材を使ったピッツアはとっても美味しかった。
デザートもピーチがトッピングのピッツア。8つの違うトッピングのピッツアをいただいた。 アルザス出身のテリーがピッツアを食べながら、「アルザスにもピッツアがあるよ」という。ホワイトソースかサワークリーム、ベーコン、ナツメグなどが載せられるのだそうで、アルザスの白ワインにマッチしそう。 

1994年Havensボリコ
これはキャサリーンが「ブラインドでね」といってあけた。私はカリフォルニアのテンプラニーリョかと思った。良く熟成していたので、古いヴィンテージであることだけは確かだったけれど、ブドウはメルローとカベルネ・フランだった。 

1994年Pahlmeyer メルロー
「も う一つブラインドよ」とまたキャサリーンがオープンした。ポテトスキンの香りとタンニンが際立っていた。デキャンタをしたら?と言う私の意見に快く賛成し てくれた。デキャンタ後は全く別のワインの表情を見せてくれた。香りがよみがえってカシスの香りが立ち上がってきた。フルーツの甘味、酸はまだこなれてい ない。今流行の濃くて厚みのあるタイプではなくて、まだ若くてチャーミングなカリフォルニアワインだった。
「こういうワインの時代の終わりが始まった年」 と誰かがぽつりと言って、みんながうなずいた。 その他に4本ほど赤ワインが出て、コニャックが出てきた。私は運転しなければならないので、水に切り替えた。 レイとマイクは政治の話になると止まらない。会話を強力に中断させて帰途に着いた。