2008年6月29日日曜日

アウシュヴィッツ



Krakowからアウシュヴィッツまで1時間以上かかった。アウシュヴィッツの近くにいくつかの町があった。すぐ近くにもあった。ガス室で殺された遺体を燃やす煙が上がるのを見たり,風の向きでその臭いがしたりしたとき、住民はどんな気持ちで暮らしていたのだろうかと思いながら、町を通過。
アウシュビッツ1に到着。大型のバスがたくさん駐車されている。たくさんの人が訪れていて、観光地という感じなので、ちょっと驚いた。博物館を通って外に出ると、石やレンガで造られた建物が並んでいる。博物館の入り口近くにポーランド人でユダヤ人を助けるのに貢献した人たちの写真が、まず並んでいる。こんな残虐な行為がこの国で行われたけれど、いい人もいたということを強調してるんだなと感じたけれど、そういう人たちもいたことを考えないと、国として絶えられないよね。ここにはロシアやポーランドの戦犯とユダヤ人が収容されていた。
ガス室が残っていた。少々しり込みしながら、窓一つない中へ入った。入り口に「この建物で何百万という人々が殺されました。その死に思いをはせ、冥福を祈って静かにお入りください」と書いてあった。シンドラーのリストという映画は、このガス室をモデルに再現されていた。アウシュビッツ1だけでも広大な敷地を占めているのに、なんと5つの収容所が、それぞれ離れた土地に建てられている。
車でビルケナウというアウシュビッツ2へ行った。ここまで来る人はアウシュビッツ1より少ないらしく、ひっそりとしていた。同じ形をした木造のバラックが、何軒も何軒も遠くまで延々と続いている。目もくらむほどの広大な土地。証拠隠しに焼いたバラックのあとに半分ほど崩れたレンガの煙突が、ずうっと遠くまで立っていて、その光景がさらに延々と続く。線路が敷地の終わりまでまっすぐに走っている。ここにユダヤ人を満載した列車がやってきて、すぐ殺戮する列、強制労働に使う列にわかられて、バラックに収容され、やがて2つあるガス室でシステム的に殺害された。ここだけで160万人。札幌の人口と同じ数?
線路に沿って走っている道路の終わりに、いろんな国の言葉で「この過ちを二度と繰り返しません」と書かれた石盤が設置されている記念碑があった。その両側にダイナマイトで証拠隠しに破砕したガス室の瓦礫がある。たくさんの訪問者がいるのに、この場所はしんとして静寂で、ポプラの木の葉が風に吹かれてこすれるさらさらという音が聞こえた。気が沈んだ。まっすぐに入り口まで続く道を、娘と二人、無言のまま戻る。
タンクトップを着てジーンズをはいた世界のいろんな国からやってきた若者たちを見て、ノーマルな気持ちに戻って、平和な時代に暮らしていることを感謝。もっともイラクの国民たちは、平和とは程遠い現状に置かれているけれど。
相棒が静かな声で「チェコへ戻ろう」と言った。娘と二人うなづいて、無言で車に乗り込む。
この旅の出発点、プラハに戻って、2日ほど過ごして、プラハからヒースロー空港、そしてサンフランシスコへ帰る。

2008年6月28日土曜日

ポーランド


ブダペストでののんびりタイムを終えて、ロンドンから戻ってきた相棒が運転する車でスロヴァキアを通過してポーランドへ向かう。
ブダペストで過ごした娘との時間は私の宝物。こういう旅を再び一緒にすることができるのは、彼女が法律の学校を卒業して、仕事を始め、時間的な余裕ができたときだろうから、あと最低数年はかかる。娘が5歳のときに相棒がドイツでVMWのキャンピングカーを買って、2ヶ月、あちこち旅をしたときから、数年毎に世界中のいろんなところをめぐった。私たち3人は旅のチームだ。けんかをしながら、ずいぶんといろんな国を回ったものだ。
国境を越えるとき、私たちはちょっと神経質になるのだけれど、今のヨーロッパは国境があってないようなもの。カリフォルニア州からオレゴン州に入るのと似たような感覚だ。道路の標識の色が変わる。村や町の名前はハンガリーでもスロヴァキアでもポーランドでも、どう発音するのかほとんど見当さえ付かない。YXVKSYといった感じで、視力検査のときにずらっと並んでいる文字を見てるみたいだ。
スロヴァキアは山が多い国。それでも麦畑が目に付く。ヨーロッパ人が食べるパン、パスタ類はすごい量なのだろうね。スペインやフランスへ行くと、畑にできるところはすべてブドウ畑という感じだけれど、東ヨーロッパはすべて麦畑、続いてとうもろこし畑だ。国道は2車線で、ソノマのローカルの道路みたい。小さな村をいくつも越えてポーランドへ向かって走る。ランニングシャツで花畑に水を上げてるおじいさん、ビニール袋を提げた買い物帰りの女性。小さな村の人々の営みを肌で感じる。スロヴァキアにはフランスやドイツで見るお城はひとつしか見えなかった。建物は質素。
ポーランドへ入った。突然、建物は三角屋根の2二階建て、3階建てに変わった。3人が今回の旅で最後に訪れる国、ポーランド。東ヨーロッパというとソ連の統括下に置かれていた暗い時代、そしてナチが殺戮を繰り返した第二次世界大戦を考えずにはいられない。私たちはナチがシステム的にユダヤ人を殺戮したアウシュヴィッツを訪問することにした。そこでアウシュヴィッツに近い都市、Krakow まで6時間かかってたどり着いた。ワルシャワはブダペストから10時間かかるから遠すぎる。ポーランドは平らな土地が地平線のかなたまで続く。麦畑、そして落葉樹の森、小さな村、村とはいえない10軒ほどの家が散らばっているところ、中くらいの都市をいくつか通過してKrakowに着いた。
翌日、ロシアの国境近くにある小村を訪れようと、田舎道を走っていたら、二人の若いパトロール兵に止められた。
「パスポートは?」「ホテルに置いてきた」
「500m向こうはロシアだよ。ロシアの国境だということを知ってますか?」
「えっ、ロシアの国境なの?どこどこ」初めてたどり着いたロシアの国境にちょっと興奮して、思わず体を乗り出してしまった。相棒が「GPSで走ってるから、ロシアの国境がどこかわからなかった」と答えた。相棒の運転免許証を見て「カリフォルニアから来たの?なんで車をプラハでレンタル?」
「娘が学校に行ってて、それが終わったので3人で、ハンガリー、途中でロンドン、それからポーランドへ来た」と相棒が答えたら、若い二人の兵士は「クレージー!」と笑っていった。ついでに相棒が探している小村の名前を言って、この近くかどうか聞いたら、「ここから10km。まっすぐこの道を行きなさい。チェコでは車のライトはつけて走るのが規則だから忘れないで」と念を押してくれた。英語が話せるパトロール兵でよかった。もし英語が通じなかったら、大変だったわ。
小村と小村の距離が離れている。中くらいの都市も少ない。それぞれの村が隔離されている。大都市ならユダヤ人殺戮の計画を徹底させるのは、ある程度容易なことはわかるけれど、ど田舎で、インターネットもテレビもない時代に、どこにユダヤ人が居住する群落があるかを調べて虐殺を繰り返した徹底振りが信じられない。全ヨーロッパをその影響下に統括したヒットラーの狂気。人間はたった一人の狂人に、これほどまでにコントロールされることがあるのだということを、ポーランドの田舎で感じてぞっとした。
明日、アウシュヴィッツを訪れて、その後、この旅の出発点、プラハに6時間かけて戻る。

ブダペストでの数日 



相棒がロンドンでテイスティングの仕事をしている数日間、娘と二人でブダペストで気ままに数日間を過ごした。チェコともオーストリアともドイツとも違う、華やかで華麗なマジャール王国が残した文化。私たちはすっかり気に入った。ソ連が戦車を持ち込んだ痕跡はすっかり消えている。
私たちの1日はホテルの朝食で始まる。ニシキライス(カリフォルニアに錦米というのがある。もしかしたらカリフォルニア米?)に味噌汁があった。でもこれはカリフォルニアでは全く珍しくないのでパス。私はヨーグルト、チーズにハム、ぱりぱりで甘みさえ感じさせる緑、黄色、白、緑、赤の生のピーマンの薄切りを毎朝食べた。もっともだんだん同じ朝食で飽きてはきたけれど。
それからおもむろに町へ出る。ホテルがオペラハウスのすぐ隣なので、外へ出ると、練習をしている歌声が聞こえてくる。
お気に入りのカフェ、Mirveszへいって、まずはカプチーノ。こんもり茂った道路沿いの木々が歩道にあるテーブルと椅子に程よい木陰を作っている。ある朝、ジプシーの女性が一人よろよろと歩いていて、ズボンが脱げそうになった。そのときにポケットからコインがこぼれ落ちた。あらあらと思って眺めていたら、そのコインを手にとって、何やら言いながらを私に差し出した。「えっ、私にくれるの?まさか」と思った瞬間、二人のウエイトレスがさっとやってきて、両手をジプシーのほうにかざしてストップのジェスチャーをしながら静かにでも毅然として何かを言っている。多分、警察を呼ぶわよって言ってるのだなと思った。そのウエイトレスの二人はモデルのように美しいのだ。ここのカフェは美人しか雇わないのだとみた。100年の歴史をもつカフェ。次に勇んでやってきたのも、多分、マネージャーなのだろうけれど、またしても美人の女性。ガードマンというような男性はいなかった。ジプシーの女性はあきらめた様子で立ち去った。3人のウエイトレスがそろって、美しい顔を曇らせて「アイムソーリー」。美人ウエイトレスたちは優雅に毅然としてジプシー女性を立ち去らせたのだった。
ブダペストの夏は暑い。日中は40度Cにも上がった。湿度は35%だったから、少し蒸し暑いという感じで、木陰に入ると涼しい。地下鉄で数駅ほど行ったところにとても大きな公園があって、役所、大使館、城、美術館、博物館が並んでいる。あまり暑いので、冷房が効いた美術館へ行くことにした。現代美術を楽しむ。公園の池の上の立つレストランでランチ。グラスで白ワインを注文したら、「どこから来たの?」とウエイトレス氏が聞くので、カリフォルニアと答えたら、「ケンダル・ジャクソンのシャルドネがあります」というからあわてて、「地元の白ワインが飲みたい」といったら、「冗談です」。ハンガリー産のピノ・グリを飲んだ。フルーツ味は、まあ、まあ、でも酸がしっかりしている。暑い日のランチにはぴったり。チェコのワインと比べるとハンガリーのワインのほうが総体的に質がいいようだ。
エアコンが付いていない地下鉄は蒸し暑くて不快。木陰のサイドを歩くほうが涼しいので、地下鉄に乗るのをやめてホテルまで歩いて帰った。
夕方、食べて、飲んで、だべる、若者たちがあふれているカフェ、レストランが立ち並ぶ通りで、軽く食事をした。暑いので私はロゼ、娘はビール。ハンガリー(チェコでも同じ味だった)のスープであるグーラッシュ、子牛シチューにあきて、サラダしか食べたくない。
ハンガリーのアイスコーヒーは日本のクリームパフェみたいだった。細長いグラスにコーヒーが少し、あとはアイスクリームと生クリームがこんもり。ほんのりと甘い。蒸し暑くてだれているときに、ほんのりと甘いこのコーヒーがエネルギーを与えてくれることを知った。
ふとストリートの角を見ると、朝に見たジプシー女性が働いて(?)いる。避けずにまじめに彼女の話を聞いているカップルもいる。お金をあげたのかどうかはわからないけれど。グループで働くジプシーは一度も見かけなかった。もうこの国にはいないのかも。私が見たのは二人だけ。サンフランシスコよりホームレスは少ない。
どんな小さな村でも、荘厳な建物が立ち並ぶ歴史豊かな古都でも、近代都市でも、そこに暮らす人々の食べて、寝て、働いてという暮らしの根っこは変わらない。それぞれに不満や希望を抱いて生きていく。ソノマを離れて、言葉も習慣も違う、さまざまなヨーロッパの国の人々をみて、当たり前のことを再確認。

2008年6月23日月曜日

ブダ城



相棒がロンドンでのテイスティングに発ったので、娘と二人、ブダペストを散策。気温は華氏85から85度ととても暑くて湿度が高い。太陽が照りつける中、娘と二人でブダ城をを目指す。Szechenyl lanchid (なんて発音するのかわからない。鎖橋と呼ばれている)という橋を徒歩で渡って、Funicular (これもなんて発音するのかわからない)という垂直にブダ城をめざす木造の乗り物(ゴンドラ風)に乗って城の前庭に着く。橋の真ん中あたりで、腰が曲がって背中がよじれている30代の小柄なジプシーがお金をせびっていた。媚びた悲しそうな表情だった。昔、ジプシーの家族は子供の成長をゆがめる器具を使って、背中や腰をゆがめて、乞食として子供を利用していたという。この男性は子供の人権などという知識がないままに生活の糧に使われていた最後の世代なのだろう。石畳に太陽が照りつけ、その反射光が肌を刺す。この城は何度も攻撃されて落城し再構築されたらしいけれど、堅実さと華麗さがミックスした豪壮な城だ。この城から見渡すペスト側の光景が、またすばらしい。特にイギリスの国会議事堂を真似て作ったというドナウ河に面した白い華麗な国会議事堂はブダ城から見渡すと絶景。ちなみに昔はブダとペストは別の都市だったとか。
城内にあるカフェで水分を補給。アイスティとかアイスコーヒーというのは、ないので、紅茶を頼んで、氷が入ったグラスもついでに頼む。アイスティーを自分で作るというわけだ。この方法で紅茶をオーダーしたのは2度目だけれど、2回ともウエイター氏は納得という表情でうなづいてくれた。
城を後にして、ペスト側にもどる。ドナウ河に沿って続くプロムナードを歩く。インターコンチネント、マリアット、ソフィテルといったホテルが並んでいて、そのテラスがカフェとなっている。そのカフェのひとつで娘はビール、私はハンガリーのロゼ、そしてサラダをオーダー。パラソルの下の席に座っているのにもかかわらず、強い太陽のせいで肌がひりひり。アジア人、そしてハーフは、とても珍しいらしく、結構、じろじろと見られる。一人のおじさんは私たちの写真を撮ってハンガリー語でありがとう(コロネス?)といってにっこり。時にはじゃがいもを食べ過ぎたらしいころころと太ったおばさんたちが、私たち二人を見て驚きの表情で口をあんぐりとあけて見続ける。アジア人(私)そして娘をどう理解したらいいの?と顔に書いてある。あーあ。
9時まで明るい。エアコンがないだろうアパートを避けて、日陰のカフェへ夕涼みをかねて多くの人々がカフェにやってくる。道路沿いのカフェは人々で一杯、活気に満ち溢れている。蒸し暑い日本の夏を思い出す。冷たいソーメンが食べたい!

2008年6月22日日曜日

ブダペストのワインバー


オーストリアのスキーリゾートが並ぶ地帯を山越えして、ハンガリーに入る。とうもろこし畑(家畜の飼料用)、かぼちゃ畑、麦畑が地平線のかなたまで広がっている。農業国であって、オーストリアやチェコ、ドイツに比べると、まだまだ貧しい国であることが伺える。
ハンガリーは北欧の中では暖かく、久しぶりに夏服姿で歩く人々を見た。ブダペストは美しい都市だ。おしゃれな女性たちが目に付く。こんもりと葉が茂った木々が並ぶ歩道にあるカフェで、カプチーノを飲む。パリを想わせる街並みなのだけれど、人々はもう少しゆったりしていて、リラックスしている。
ホテルから10分ほど歩いたところにあるDomus Vinorum というワインバーに行った。一階がワインショップで地下がセラーとワインバーを兼ねている。プラハでも、オーストリアでもサッカーのプレイオフを観戦する人々であふれていたけれど、ブダペストも例外ではなくて、この日はドイツとポルトガルのゲームが放映されていて、スポーツバーやちょっとしたカフェでは人々がテレビにかじりついていた。なんとワインバーも例外ではなくて、大きなスクリーンがあってお客さんはワインを飲みながらのサッカー観戦をしている。
ハンガリーには22のワイン地区があって、シャルドネ、ソーヴィニヨン・ブラン、カベルネ・フランのほかに、この国独特の品種が多くある。例えば白なら、Budai Irsai Olive, Keknyild, Keubrankos, Rutrese といった品種があって、なんて発音するのか、想像もつかない。Budai Irsai Oliveはフルーティでマスキャットのような香りがしてきれいな酸味の白だった。Keknyildは香りはあまりなかったけれどボディが中くらいでユニークな白で、これもおいしかった。赤ワインのKeubrankosとRutreseという品種はフルーツ味に欠けている。チェコよりは暖かいといっても、赤ワイン用のブドウ栽培にはちょっと涼しすぎるのだろう。
サラミ、ソーセージは自然な味がしてなかなかおいしい。赤、緑、黄色のピーマンの薄切りは甘みがあってこれもおいしい。
ワインバーでサッカーを観戦しながらワインを楽しむとは、夢にも思わなかったけれど、なかなか楽しかった。ドイツが点を入れると立ち上がって腕を高く振り上げて飛び跳ねる。娘はチェコですごした3週間で、ポルトガルのクリスチアーノ・レノルドというプレーヤーの大ファンになったとかで、この日、彼が2回もミスをして、そのせいでポルトガルが負けて、残念がっていた。娘が選んだ写真です!!

2008年6月20日金曜日

Graz (グラッツ)


チェコからハンガリーのブダペストへ向けて出発。途中、オーストリアのグラッツという町で一泊。町の広場には立派な彫刻を施した噴水があって、威厳と優美さが交じり合ったがっしりとした建物が並ぶ。毎日、曇り日、ときどき雨が降る。気温は10度前後。ソノマの冬だ。セーターを持ってこなかったのを悔やむ。でもその気候せいで木々も野原もみずみずしい緑色。

薄ら寒い町を散策後、遅い夕食をとるために9時にレストランへ入る。室内はタバコの煙でむんむん。金髪で目が細めで真っ白な肌の青年ウエーター氏が、まずフランス語で私に話しかけたので、「ノースモーキングがいいのですが」といったら、ぱっと流暢な英語に切り替えて「禁煙席があります」といった。でもこの狭い部屋なら禁煙席まで煙が襲ってくるなあと考えていたら、「別室がありますから」という。喫煙オーケーのレストランの室内を抜けて廊下を歩いて、別室へ案内してくれた。私たち3人だけで、他のテーブルは空席。薄い黄色をベースにしたエレガントな室内。タピストリー、自然派の絵画が壁に飾られている。黄色のテーブルクロスに鉄で作られた小型のキャンドルスタンド。ウエイター氏がキャンドルをともしてくれた。「貸切のレストランだわね」と娘と二人ではしゃぐ。

料理は上品な味付けで食材も新鮮。じっくりと煮込んだ肉料理はとてもおいしかった。サラダのドレッシングはこの地区独特で、パンプキンシードオイルとアップルサイダービネガー。どちらもこの地区で作っているそうだ。地区の名前はSteierと聞こえた。サラダに使われていた小豆色の大きな豆は「英語に訳するとビートルズビーンズです。オーストリア独特の豆です」と教えてくれた。

オーストリアの白ワインというとグルーナー・フェルトナーが良く知られている。でもウエイター氏がブラインドで試飲すると、グリューナー・フェルトナーと間違うという、他の品種の白ワインを勧めてくれた。2007年、Welschriesling (ウエルチュリースリング?)という品種で Sudsteier Mark(南ステイル地区?)とラベルにあった。確かにグリューナー・フェルトナーと似た香りがする。クリーンで、フレッシュ。アップルサイダーを使ったドレッシングのサラダの酸味ともよくマッチ、煮込料理の脂肪もカットしてくれる。

カリフォルニアから来たと告げると、ウエイター氏が「シュワルツネガー知事の州ですね。彼はここから10キロ程はなれた土地の出身なんですよ」という。

11時を過ぎている。お客は私たちと喫煙席にもう1カップルのみ。でも急いでほしいという素振りも見せない。ヨーロッパのしきたりで、「会計をお願いします」というまで、請求書を持ってこない。

10時まで明るい北ヨーロッパ。11時を過ぎて、辺りは暗くなっていた。雨で塗れた石畳の歩道。明朝、オーストリアを通過してハンガリーへ入る。

2008年6月17日火曜日

プラハでワイン、ビール、そしてアブサン



プラハの2夜目、ホテルから5軒ほど隣にあるビアホールへ行った。1499年からオープン、700年の伝統があるという店だ。ドイツと似てる。ソーセージに黒ビール。この日からプラハで3週間の夏期講座を受けていた娘が合流。アコーディオンに合わせて楽しそうに歌を歌っている4人組を見て、「笑顔を見せてるプラハの人間を見るのは珍しい」といった。音がものすごく外れているのを、ものともせず、大声で歌っている。隣のテーブルのカップルが、声をかけてきた。二人はスペインから来たのだそうだ。そのとき、アコーディオンが曲名は忘れてしまったけれど、若かりし日にマドリッドの公園を歩いているときにかかっていた、その当時流行っていた曲をひいた。スペイン人のカップルと話しているときに、この曲が流れて、なんだか感動した。音楽っていいよね。
ワインバーへ寄った。チェコのワインをオーダー。白ワイン、特にリースリングは悪くない。でもカリフォルニアに、もし入っていたとしても(もちろん入っていない)、探してでも飲みたいという質のものではなくて、地元で飲むのに十分というワインだった。赤ワインはフルーツ味に欠けていて、それを補う他の味わいはあまりなかった。
お腹がいっぱいで、ひんやりした空気を頬に感じながら、ホテルへ向かって歩いていたら、ホテルから3軒目のところに、コーヒーショップ風の店があった。まだ開いている。相棒がここでアブサンを飲ませているという。Absinthe Time Cafe Club Bar という看板がかかっている。サンフランシスコの雑誌の副編集長をしている友人が、カリフォルニア(アメリカ?)でアブサンの輸入解禁になって、そのプレスインタビューにいって来たと話していたのを思い出した。「入ってみようよ」家族3人で入る。チェコ語で書かれてるので、よくわからないのだけれど、アブサンのいろんなメニューが載っている。3人、別なのをオーダー。ひとつはきれいなブルー。二つは無色。サービスの女性がテーブルの上にトレーを置いて、角砂糖をアブサンが入ったグラスに入れて、ぱっと火をつけた。アルコール度が60%とあるから、火がついても不思議ではない。グラスから炎があがり、幻想的。もう一個の角砂糖をアブサンのグラスに入れて湿らせて、お皿に置いた。火を消して、グラスを渡してくれた。隣のテーブルの2カップルがじっと見ている。そして「グッド・ラック」といった。飲むとあまりおいしいものではない。味もあまりない。ただ喉から胃までアルコールが通過したあとひりひりとした。そんな私たちをみて、隣の2カップルもピンク色をしたアブサンの飲み物をオーダーして、こっちをみてにっこり。
悪酔いをしてもホテルまでは、近いから這ってでも帰ることができると思っていたので心配なし。
良い心地はとてもいいものだった。「アブサンて飲みすぎると幻覚症状が出るって聞いたことがあるけれど、何か見える?」と娘。「全然」と私。楽しい晴れやかな気分になっていることは確かだ。3人でげらげら笑いながらホテルへ着いた。
翌日、悪酔いの気分は全くない。小さなグラス一杯なら、楽しい気分を味わうことができて、酔いが翌日まで残らないということがわかった。まさかプラハでアブサンの初飲みを体験するとは思ってもいなかったけれど、楽しい旅の思い出。
明日から、オーストリア、ドイツ、ハンガリーを車で回る。

2008年6月14日土曜日

プラハの初夏


昨日、チェコ共和国の首都、プラハに到着。サンフランシスコ空港からイギリスのヒースロー空港へ飛んで、2時間の待ち時間の後、ブリティッシュエアーでプラハへ向かう。パイロットとフライトアデンダントのイギリス英語が、カリフォルニアの標準英語に慣れている耳に、クラッシックでエレガントに聞こえる。相棒にそういうと「気取ってスノビッシュ」と切り返す。機内のミュージックもいい感じのクラシック。初めて訪れる東欧という意識もあって、気持ちも、クラシック?に変わっていく。

プラハの空港は小さくて、なんだか故郷の千歳空港みたい。そういえばストックホルムもそんな感じだったなあなんて考えながら入国手続きの列に並ぶ。

旅の楽しみ方は二つあると思う。ひとつは出発する前に、歴史、見所等をチェックして、その土地に着いたら、その知識を確認するために訪れる。もうひとつは予備知識なしで、訪れて、まっさらな印象を楽しみ、関心や興味をもった事柄を、後からチェックする。私は後者の旅。

気温は摂氏10度。真夏のソノマから来て、突然、冬のソノマに逆戻り。緑がみずみずしい。ホテルにチェックインをして、早速、町へ繰り出す。町並みは整然としていて清潔。札幌の南北、東西の町に慣れているので、放射線状に広がっている路地に気の向くまま入っていくと、方向感覚が完全にずれてしまう。長い歴史を経て磨り減っている石畳の道は、ハイヒールの敵だわね。

ヴルタヴァという河を挟んで町が二つに分かれていて、私たちのホテルはオールド・タウンのあるほう。河にかかっている橋が、またいい。美しい緑色の河に沿って、ホテルから15分ほど歩くと、飲食街に出る。冬のジャケットを着た人たちがのんびりと歩いている。金が屋根に張られた国立劇場は歴史の重さと気品を備えている。カルラブ・モスト(発音は正しくないかも)橋を歩いていたら、小柄な70歳代らしい女性が、私を見て橋の向こう側を指差した。教会の塔の右側に直立に虹がでていて、塔の後ろに夕日が見えた。半円ではなくて、直線に上に上がっている虹を見たのは初めて。

着いたばかりなので、広場の名前がわからないけれど、金色の大きな時計が美しい教会がある広場に大きなスクリーンが張られて、サッカーの試合を中継していた。大勢の人がその広場のカフェに陣取って観戦。私と相棒はその人たちを鑑賞?しながら夕食。どこへ行ってもまずお目にかかるのはピルスナーのビール。私は同社が生産しているというボヘミアン・ブリュットというスパークリングワインをオーダー。フルーティで思ったより飲みやすい。グーラッシュというジャガイモと牛肉をよく煮込んだスープ(これはおいしかった)。今まで見たことがなかったのでオーダーしたのは、魚介類のピッツア。写真がないのが残念だけれど、ムール貝、小エビが殻つきのままのっている。それにイカ、白身の魚。サンフランシスコで食べるチョピーノという魚介類のスープが、ピッツアに変身したという感じなのだ。食べてみた結果?ムール貝や海老の汁が出て、かりっとしているべきの底の部分が柔らかになってしまっていて、あんまり感激しなかった。

ソビエトにコントロールされていた共産主義の時代を経て、資本主義に転向した国。資本主義まっしぐらのアメリカとの、ニュアンスの違いなんかが少しでも知ることができたらいいかな。チェコでもワインを生産しているけれど、自国で消費するのがほとんどのようだ。ワインもどんなものか味わってみたい。

2008年6月12日木曜日

夏真っ盛りのソノマ

6月初旬、華氏89度(摂氏31.6度)、太陽が燦燦と降り注ぎ、肌に焼け付く。でも風が涼しく、木陰に入ると暑さが感じられないところが、この土地の気候の過ごしやすいところ。夜になると気温がぐんと下がるので、エアコンが必要な夏の日は2,3日。家中の窓を開けて涼しい風を家中通過させる。すると暑くて眠られないという夜はやってこないのだ。
この真っ青な太陽とからっと晴れたソノマを後に、明日、東ヨーロッパへ発つ。東京から帰って1週間ほどしかたっていないので、まだ時差ぼけが残っている。この時差ぼけが東ヨーロッパへ行ったら、どういうふうに影響するのかしら?チェコ、ハンガリー、ポーランドをまわる予定。オーストリアにもちょっと寄る。ハンガリーでトカイを飲むのが楽しみ。
小指の先ほどの大きさになったブドウの粒は、2週間後に帰ってきたときには、倍くらいに膨らんでいるのだろうな。 

2008年6月11日水曜日

カレラとオーボン・クリマ

6月3日と4日、カレラのジョシュとオー・ボン・クリマのジムが出席した東京と京都で開かれたセミナーの通訳として同伴。二人とは旧知の中なので、気兼ねなく、ジョークを飛ばしあいながら楽しい旅を続けました。外見はイギリス人紳士風のジョシュとプロレスラー(最近は少し痩せた)のジムでは、正反対なのですが、ワイン造りの哲学は驚くほど似ています。暇さえあれば、熱心にワイン造りについて話し合っていました。二人とも日本食が大好き。なんの違和感もなく美味しそうに食べていました。久しぶりの日本食、私も堪能。日本女性は若々しくてきれいで優しいと二人ともうっとり。カリフォルニア風マナーがしっかり身についてしまった私は、少し日本女性であることを思い出したほうがいいかしら、なんて感じた次第。