2007年1月11日木曜日

ベトナムの旅





1月3日にベトナムから帰ってきた。「どうだった?」ってみんなに聞かれる。返事は簡単ではなくて、「うん、とてもインタレスティング。すごいエネルギーだった。衛生状態はちょっと良くないかな」というあいまいな言葉になってしまう。
「グレート!また行きたい。すごく楽しかった」とかいうのが普通、旅をしてきた人から聞く言葉なんだけれどね。 でも行ってよかった。
冷房の効いた大型バスから道や人々を眺めて、高級ホテルへ宿泊して、買い物をするというのではなく、9歳のときにベトナムを離れたという友人、ベトナム語を話すランと彼女の夫のステーヴ、友人のベスとブラッドのカップル,それに私たち家族3人と7人の旅で、ガイドさんは付いていたけれど、それでも地元の人との交歓がある旅だったので、低開発国を肌で感じることが出来た。

人口800万というサイゴンから旅は始まった。すごい空気汚染で外に出ると目が痛くなるし深く呼吸すると咳きが止まらない。道路という道路はオートバイの洪水で、車は珍しく、クラクションを鳴らしっぱなしという感じでオートバイの中を掻き分けて走る。ホンダの名前があちこちで見られたし、日本の最大の顧客だろうなと思った。ガイドさんが日本が最大の投資国ですと言ったので、なるほど。
日本やカリフォルニアの大都市は車の洪水だけれど、それをオートバイに置き換えたらぴったりだ。ルールがないようで、それでいて一定の暗黙のルールで走っている。車のクラクションは鳴らし方に意味があるらしく、時によって鳴らすリズムや回数が違っていた。道路わきに住んでいたら、ひどくうるさいだろうね。トラックがなくても大丈夫とばかりにいろんなものをオートバイで運んでいるし、赤ちゃんを含めて4人乗りなんてこともしている。オートバイは規則では二人以上乗ってはいけないということになっているのだけれど、今日は土曜日なので警察が黙認しているのだと、ガイドさん。自転車の人はちょっと引け目があるという感じで走っていた。
  クリスマスの夜に付いたので、サイゴンの有名な教会がある広場は人で埋め尽くされていた。夕食を終えて帰るのに、車なら立ち往生していつホテルに着くかわからないから歩きましょう、ということになってオートバイと人で身動きできない道を歩いて帰った。道を横断するときはスリルに満ち溢れていた。オートバイが腕に触れる位置まで押し寄せてくる道を「みんなで歩けば怖くない」と信じてゆっくりと止まらずに走らずに歩いていくのだ。途中で10代のグループがアメリカ人を見て「わーい!」といって紙ふぶきを浴びせてきた。汗びっしょりのレイとベスが紙ふぶきをたっぷり浴びて、顔や首筋にくっつき、シャワーをしても全部取れてなかったほどだ。アジア人の私は邪魔よといわんばかりに筋肉が締まったグループの女の子に跳ね飛ばされた。


翌日、メコンデルタへ行ったのだが、距離的にはそれほど遠い所ではないのに、恐ろしく長い時間がかかった。その主な理由はサイゴンを出るのと、ホテルへ帰るときに交通渋滞で片道に2時間以上かかったからだ。サイゴンを抜けると少し交通量が減ったけれど、それでもオートバイが目に入らない道路はなく、人口密度の高い国であることを実感。1世代前までは子供は5-7人が普通だったのが、今、ようやく二人くらいに減ってきたとのこと。メコンデルタのほうへ行くと水牛が畑を耕していたり、薄茶色の牛が道路脇に鎖につながれて、それでも車やオートバイにはおびえていなくてあどけない表情で寝そべっていたり、4匹の豚を金網の折に入れてオートバイで運んでいたりと、のどかで貧しくて第二次世界大戦前の日本てこんなんだったのかなと思った。 
  メコンデルタのあの込み入った運河?と近代人には理解できない文化と暮らしをもつ人々を相手に、戦争をしたアメリカの無知と傲慢さ、そして刈り出された若い戦士たちに思いが飛んだ。しかもあの戦争に懲りずにまた全く文化も宗教も習慣も違う、理解が出来ない国、イラクを相手に戦争を仕掛けたアメリカというか、ブッシュ内閣に、旅の全員がうんざり。 メコンデルタの絵葉書や帰りに飛行機で読んだ機内誌(アメリカ人が書いていた)の写真はやらせ?だね。実際に見た風景は写真のようにカラフルでもなかったし、写っている女性は絶対にモデルだよねという感じなのだ。この辺はやっぱり開放政策を取っているといっても共産国だなと変なところで感心した。
  メコンデルタでのランチは、共産国になる前の地主の豪華な屋敷をホテルとレストランに変えて、暮らしを立てているというところで食べた。とても優雅な応対と流暢な英語で歓待されて、食事も美味しく楽しかった。娘はここで食べた魚でお腹の調子を崩したけれど。すぐに食事をするのかなと思っていると、庭を見たいですか?と南洋の植物とフルーツが実っている庭をゆったりと歩く。時間の感覚が違う。


ナ・トラングへ飛行機で飛び、素晴らしいリゾートホテル(テレビも電話もなく静かに休む静養所という感じ)でゆっくり。海の色が美しい。漁船が夜になると灯りをつけてたくさん出てくるのを眺めた。ベトナムの女性は日に焼けるのを嫌うので、日中は誰も海にはいなくて「クレージーなアメリカ人だけが海に出てる」というわけで波乗りを楽しんだ。このホテルにはヨーロッパ人はいたけれど、アメリカ人は初めてだということだったし、日本人は見なかった。緑色のきれいな芝生はいつも水をまいているわけだから、いくら殺虫剤をまいていても蚊が生存しているので、肌がソフトな娘は脛中、蚊に刺されて、ちょっとぎょっとしたけれど、熱も出なくてほっとした。このホテル滞在の4日目、最後の日は冬から春の気候パターンに変わったとかで、温かい雨が降り出した。

  また飛行機でダナングへ移動。古い歴史のある街、ホイ・アンに宿泊。古いのは素敵だけれど、下水設備があまりきちんとしていなくて、雨がしとしと降って、いろんな臭いがして、ちょっとつらかった。ガイドさんが市場にある手作りのヌードル(うどん?)が美味しいという店に連れて行ってくれた。食べる前にトイレに行ったベスが、キッチンを見て「とてもインタレスティング」といった。私は肯定的なコメントと考えていた。曇ったガラスのコップと袋に入った割り箸ではなくて箸たてにはいっているのを使うのにちょっと抵抗があったけれど、ベスの恋人のブラッドが持参した殺菌用の紙でグラスを一つ一つふいてくれたし、勇気を出してエーイ!とばかりに箸を取り出して、うどんを食べてビールも飲んだ。グループはベトナムのビールを全種類飲むというので、毎日違うビールをオーダーしていた。うどんはとっても美味しかった。いろんな生のハーブが盛ってあってこれもなかなかいい味がした。でも向かいに座っているベスとブラッドは、これはなんていうハーブかな、なんて箸でつまんでみたりして関心を示しながら、さりげなく食べずに残していた。食事の後にトイレに立って、見たキッチンにショック。ベスはそれを知っていて生ハーブを食べなかったのだ。
  この古い町には大型バスでやってきた日本人の観光客がたくさんいて、熱心に買い物をしていた。買い物をしているときには値段の交渉をしないとあほだとバカにされるから75%から50%(これだと大成功)に負けさせるように交渉しなさいとランに言われたので、交渉は苦手だったけれど、交渉した。素敵な手で刺繍したバックを10ドルだったのを8ドルにまけてくれた。嬉しさ半分と、これを作っている人たちの賃金て、信じられないほどに安いんだろうなと、同情が頭の中を掠めた。でも使い始めて1週間後に持つ部分の紐が壊れた! アメリカ系ベトナム人であるランはツーリストはしないという方針だったので、カフェも地元の人が行くカフェへ入った。コーヒーは確かに美味しかった。ここでもまたブラッドが曇ったガラスのコップを拭いてくれた。コヒーカップは拭いても取れないほどに黒くなったシミがカップ内に染み付いていた。ランが9歳でベトナムを離れて、初めて戻ってきた彼女の国なのだから、ここで「これは飲めないわ」とは言えないと覚悟。飲み口のところをティッシュペーパー(持参)で拭いたら少し黒いのがはげたので、そこから飲んだ。ベスに「ティッシュいる?」と聞いたら「ノー・サンキュー!」と言って、なんときれいに拭いた小さなおもちゃみたいなスプーンで飲んでいるので思わず微笑んでしまった。
  一緒に行ったグループの私たちを除いた4人は全員が科学者なので、蚊に刺されることとか、下痢をしないようにということとか、きちんと対応していた。それが突然ランがその衛生観念から離れて、何も言わずに衛生的とは言えない料理を食べ始めたので、ちょっと驚いたけれど、彼女が9歳のときに離れた自分の国に愛着を感じたのと、この国を好きになりたかったんだろうなと思う。 フランスの植民地だった国だから、フランスの影響を受けているし、ちょっとしたレストランで飲んだフランスワインはレイがどうしてこんなに安く出せるんだろうと首を傾げるほどの値段で飲むことが出来た。 

  ここで娘と私は帰国する日がやってきた。後のグループは残って自転車に乗ったり、北上して山登りをしたりする予定になっていた。娘の仕事の都合で10日しか休暇が取れないことから、一人で帰すのは心配なので、私が一緒に帰ることにしたのだけれど、内心、いい結論だったとほっとした。
  帰りがまた大変。朝5時に起きてダナングからサイゴンへ飛んだ。サイゴン国際空港(一応)で8時間台北行きを待たなければならない。旅は慣れているので、空港内であちこちのショップを見たりして過ごせばいいと思ったのが大間違い。3時まで通関を通れないという。たった一つローカルの人たちが利用するレストランがあるだけ。幸い冷房が利いているので、そこでうどんやポテトフライ、ビール、コーヒーを飲んでタバコの煙にむせながら4時間を過ごした。二人で旅していたので、おしゃべりに夢中になって、本を読む必要も音楽を聴く必要もなく5時間をこのレストランで過ごせた。 3時間の飛行時間で台北、ここからサンフランシスコ行きへ乗り込んだ。各席にはテレビがなく、ふてくされて眠りこけた。
 ようやくサンフランシスコへ付いたら、ものすごく寒い。そして私の車のバッテリーが上がっていた。さらにいつもと違うパーキング場を使っていたので、帰り道が違って、なんとサンフランシスコ市内に紛れ込んでしまい、娘のアパートにたどり着くまであちこち市内を走り回ってひどく時間がかかった。二人で日本食を食べて機嫌が直り、さて娘をアパートに送ってソノマへ帰ろうと、車のラジオをつけようちょしたら、バッテリーが上がったためにラジオはシャットアウト。コード番号、エラーという文字が出るだけ。音なしで一人で黙々と暗い道を運転してソノマへたどり着いた。
  翌日目が覚めたら、午後の2時だった。 ベトナムの5年後は多分中国を追っているだろう。レイはまたそのころ行って見たいといっているけれど、うーん、私はどうかな?

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