2007年12月12日水曜日

メキシカンの結婚式

ひょんなことからナパのワイナリーで働いているメキシカンカップル、ロシタとイダホの結婚式に招かれた。カリフォルニアのワイン産業はメキシコ人の貢献なくしてはありえない。ブドウ栽培、セラーの仕事を支えている。 陽気なラテンのパーティ、マリアッチバンド、メキシコ料理が次々と頭に浮かんでうきうきして出かけた。

レセプションは3時から。すでにマリアッチバンドがメキシコの歌を演奏していた。白い上着に黒いスラックス、赤いリボンタイを結んだ、伝統的なマリアッチバンドだ。一緒に行った友人はどの歌もみんな同じに聞こえると言うので、思わず笑ってしまった。 頭のよさそうな美人の花嫁さん。がっしりした体格の誠実そうなお婿さん。薄紫のおそろいのドレスを着た5人のブライド・メイド(花嫁の付き添い女性)がいる席に案内された。 
花嫁、花婿さん自らが「飲み物は?」と聞いてくれて、飲み物を持ってきてくれる。「食事の用意が整ったから、並んでください」と手招きして呼んでくれる。花嫁と花婿の席に鎮座して式典が繰り広げられるという結婚パーティとは違って、アットホームだ。といっても決して親しい人だけのこじんまりした結婚式ではない。300人のゲストがやってくるという。このパーティの出席者のほとんどがメキシコ系の人たちだ。アジア人は私と友人の二人だけ。忙しいのに二人は私たちに気を使ってくれる。 
驚いた目でじっと私たちを凝視する人もいたけれど、薄紫のドレスを着た女性たちはフレンドリーだった。ワインのボトルを持ってきてテーブルにおいてくれた。
「あなたはセブンアップを飲んでるの?」
「ノー、テキーラがミックスしてあるの」と言ってブライド・メイドの一人がにこっと笑った。
「素敵なヘアスタイルね」
カールをして結い上げてある髪を指差していったら「お友達が結ってくれたの」という。なつかしい素朴な日本の結婚式を思い出す。

ランチが終わったら、花婿さんと友人の男性数人がごみ用の大きなビニール袋を持って、お皿やコップを片付けだした。 花婿さんが後片付けをしているのは、初めてみた。 
そして次の部屋へ移る。平均年齢45歳くらいかなという年配風の演奏者がほとんどのマリアッチバンドが、相変わらずメキシコの歌を演奏している。日本で言う演歌なのだろう。
まだ食べている人もいれば次の間で椅子に座って、話すでもなくボーっとしている人たちも多い。日本の結婚式のように式場担当者とか進行係と言う人がいないらしいのだ。程よいころだと思うとお婿さんとお嫁さんが指示して、次のプログラムに移るということのようだった。かれこれ1時間30分は、何もしないでボーっというのが続いた。そしてようやく次の、もう少し現代的なバンドがやってきた。
花婿さんが選んだという曲で二人がダンス。それからブライド・メイドの女性たちと家族らしい男性と数人の女性が踊る。 急ににぎやかな曲に変わって、花婿さんと花嫁さんが椅子の上に立ってヴェールを片方ずつ握ってゲートを作った。そのゲートを紫のドレスを着た女性たちが列を作って小走りに駆け抜けて次の部屋に行って、帰って来る。独身女性はその列の仲間に入る。音楽が消えたところで花嫁がブーケを放る。ブーケを手にした女性は、次に結婚するのは私だ!と歓喜の表情で飛び跳ねる。次は男性グループの番だ。すごいスピードで列が走る。曲が止むと花婿が花嫁のスカートの下に入って取り外しはずしたガーターを男性たちに向かって放る。 
10歳くらいの男の子が全員にマチ針を配り始めた。友人が隣の品のいい黒のスーツを着た女性に「これは何ですか?」と聞いたけれど、英語は話さないようだった。私が隣の男性に聞いたら、お金をこの針で彼たちの服につけるのだと言う。友人と二人で張り切って待ち構えていた。気が付いたら、マチ針で花嫁か花婿の服にお金をつけて花婿か花嫁と踊るのだ。私たちはアラビアンダンスのダンサーが腰を震わせて近づいてきたら、お金を胸とか腰に入れるのと勘違いしていたのだった。友人が「そうよね、ラスベガスじゃないんだから」と言うので大笑いした。 
すでにとても疲れている花嫁さんは、いろんな人が入れ替わり立ち代りやってきてはお金を止めた人とダンスをするのに疲れた表情をしていた。花婿さんはリボン状に折ったドル札を頭に飾られて、それでも余裕たっぷりに踊っていた。それが終わって花嫁と花婿が再び二人で踊ることになったときには、花嫁はほっとした幸せそうな表情を見せた。 「ウエディングケーキを食べたら帰ろう」と友人が言うので待っていたけれど、なかなかウエディングケーキのカットはしない。花嫁さんに聞いたら、いつになるかわからないと言う。 
テンポの速いサンバが演奏されて、ダンスをする人たちが増えた。ちょっと太目のお姉さまやおじ様たちが足取り軽くステップを踏んでいる。そのリズム感はさすが。ダンスをする人たちで埋まったフロアーを10人くらいの子供たちが興奮してすごいスピードで走りまわる。誰も気にする人はいなくて、ダンスのひとつの場面という感じなのだ。 7時になっていた。あたりは暗くなったのでウエディングケーキを食べるのはあきらめて帰ることにした。
帰り道に、大きな贈り物を抱えてやってくる人たちと出会う。 食事は親類が、ウエディングケーキは友人が、花嫁ドレスはお母さんが縫ってくれたという。手作りの結婚式。 日本のホテルでの結婚式なら、この時間内にもう3つの披露宴が終わっているかもしれない。
待つことをちっとも苦にしない、ぼんやりと座っていることが多分日常なのだろう。そしてこのパーティはきっと夜中の12時まで続いたことだろう。 
人任せではない、自分たちの結婚式を自分たちで取り仕切っていた。 責任感のありそうな花婿さんと働き者の美人の花嫁さんの幸せを祈って帰路についた。

2007年10月7日日曜日

ハーベスト&ツーリスト


9月末、ナパ・ヴァレーに仕事で通った。ハーベストは真っ最中だった。そして多くのツーリストがやってきている。ワインカントリーはディズニーランドの次にツーリストが多いという事実を実感。
朝、約束の時間に間に合うように、十分に時間をとって家を出たはずなのに、遅れそうになってあせった。 
朝に摘んだブドウを積んでゆっくり走る大型トラクターは後ろに(私の車も含めて)たくさんの車を従えて、行列のようにゆっくりと進む。大型トラクターが目的のワイナリーへ行く小道で曲がったので、さあ、これからスピードが出せるかなとほっとしていると、「ノー、ノー、みんなが過ぎるまで待って入ってよ」という私の願いもむなしく、よろよろと車が行列に入り込んでくる。テイスティングを終えたツーリストが次のワイナリーを目指している。この車はワイナリーを探しているし、ワインもそこそこの量を飲んでいるだろうから、それにバケーションだから急いでいない。ゆっくりと辺りの景色を見ながら規制速度以下で悠々と走っている。 
ワインビジネスの景気がいいことは聞いていたけれど、その好調ぶりを目の当たりに見た。ナパ・ヴァレーのカリストーガという温泉が出る小さな町に近い、このヴァレーの北端に2つのリゾートホテルが新設されていた。そしてどのホテルも豪華版の車がびっしりと駐車されている。こんな遠くの何もないところが好評なのだ。カリストーガ・インは部屋がコテージ風でメインの建物から離れていて、気軽に歩いてというのではなくて、いちいち電話を入れてゴルフ場で使われているカートで迎えに来てもらわなければならない。山の中にあって、夜は山猫が徘徊していると地元の人が言っていた。
訪問客で賑わっているワイナリーというと、やっぱり大型ワイナリーだ。スターリング、ベリンジャー、モンダヴィのテイスティングルームは満員。スターリングは丘のてっぺんにあるので、ケーブルで登って行く。これがまた人気らしく長い列が出来ていた。なんだかディズニーランドにやってきた気分。 
ケーブルからの見晴らしはとてもいい。ヴァレーをはさんで向こう側の山の中腹に中世のフランスのお城のような建物が見える。最近、サツイというワイナリーのオーナーが4500万ドルで建てたもので100の部屋があるという。キャッスル?の名前はCastello di Amorosa。
ここで共和党の大統領候補者ジュリアーニ氏(元ニューヨーク市長)の資金募集パーティが開かれたそうだ。レセプションだけだと250ドル、レセプションと写真を一緒に撮ってもらうと1000ドル、ディナーだと2300ドルだそうな。
2007年のハーベストは終わりに向かっている。毎日、車で通る近所のブドウ畑のカベルネもシラーも摘み取られて、ある朝、忽然と消えていた。

2007年8月29日水曜日

2007年ハーベスト始まる


久しぶりにナパへ行く機会があった。この週は暑い日々が続いて、外へ出ると強い日差しがぴりぴりと肌を焦がすのがわかる。日本では男性用日傘も売り出されているようだけれど、ナパで日傘をさす勇気はまだない。いいことなのだけれど、なんだか弱々しいというイメージを勝手に自分に対して抱いてしまうからだ。

 8月21日、ホール・ワイナリーへ立ち寄ったら、最初のソーヴィニヨン・ブランを摘んだといっていた。担当の女性が「ブドウが音をたてて熟している」と表現していた。
 収穫時期が今年は早いというワイナリーと例年通りというワイナリーがあって、畑によってまちまちだけれど、全体の印象としては収穫時期が早いような気がする。春から夏にかけて気温が安定して、ブドウは順調に生育し、熟してきた。8月中旬、1週間ほど高気温が続いたので、糖度が急激に上がり、畑によっては収穫が早まったということなのだろう。いよいよ2007年ヴィンテージの始まりだ!
  先週は気温が27,8度と落ち着いていてのだが、今週は32度を超える日々が続きそうだ。もう少し熟したらいいと思っていた畑はこの気温ににっこり。逆にナパの温かい畑は、これでいよいよ収穫が早まるなというのが実感だろう。

 ナパのワイナリーを訪れていて感じたことは、オーキーなタイプのシャルドネから酸味が利いたタイプへ、そしてライプスタイル、プルーンの味がするような過熟ブドウから造られたワインのスタイルから、もう少しトーンを落としたスタイルへと変化が生じているということだ。
  例えばシェイファーのシャルドネ。これまでもカーネロス地区のブドウがもつ特色を生かして、かんきつ類系のきれいで華やかな香りと酸味を生かすためにマロラクティック発酵をしていなかったけれど、それに酸味を強調し、より長くフレッシュさをキープするために100%の樽発酵から小型の樽の形をしたステンレスの樽での発酵もミックスするように変えていた。新樽(50%)、1年使った樽(30%)、ステンレスの小型の樽(20%)という割合だという。

 オークの香りが強く、バタリーでトロピカルフルーツの味わいがあるシャルドネが、多数だったのだが、カリフォルニアのシャルドネのスタイルのチェンジが確実に始まっている。
 赤ワインのスタイルの変化の例としてはコングスガードの2005年のシラー、カベルネ・ソーヴィニヨン。2004年に比べると2005年はブドウの熟し具合のトーンが落ち着いている。やや涼しかった2005年の自然が与えてくれた原料ブドウを生かして、エレガントさを強調したワインに仕上げてあった。コングスガード氏はこのタイプのワインのほうが好きだという。また白ワインも酸味を残すために、以前に比べると糖度が少し低い時点で摘んだという。

 あるワイナリーのオーナーは、2005年の彼の赤ワインは過熟じゃなく、引き締まっていることに関して、「プレスがどう言うかな」と少し気になる様子だった。
1997年のワインは糖度が上がったことから、それまでのワインに比べるとライプでジャミーなものが多くなった。醸造家たちはそのことを心配したのだが、ワインプレスが絶賛したことから、より熟した(時には過熟)ブドウを使ったタイプのワイン造りを続けるワイナリーが増えていった。そのことを思い出して、このオーナー氏は言ったのかもしれない。
 今後、ヴィンテージによっては、ジャミーでライプなワインが生まれることがあるだろうが、意識的にハングタイムを長くして、極限まで糖度をあげてから収穫して造るワイナリーは少なくなるだろう。

  2007年の夏はあっという間に過ぎてしまった。そしてハーベストシーズンだ。このまま順調にハーベストが終わりますように!

2007年7月31日火曜日

2007年ブドウの成長は順調


今 年の夏はやたらにいそがしく、とても短い夏になってしまいそうだ。6月10日からヨーロッパへ2週間行ってきた。帰ってすぐにサンタ・バーバラ、そして日 本へ帰国。2週間の滞在を思う存分楽しんで帰ってきたら、もう7月も終わり。そして8月は娘がサンフランシスコからサンディエゴに越すので、その手伝い。 これが終わって一息つくと、もう8月も半ばを過ぎているだろう。

と いうわけで日本から帰って久しぶりにゆっくり見たブドウ畑は、もう色付きが始まっていた。今年のブドウの成長は大きな天候の変化や悪天候がなく順調だ。成 長具合は遅くもなく早すぎもせずというところだそうだ。でもまだ早熟品種の収穫が始まるまで1ヶ月、カベルネなどの晩熟品種だと2ヶ月あるので、順調だと いう言葉ももごもごとしていて明確には言わない。自然を相手にしているのだから、まだまだ先はわからないということをいやというほど知っているからだ。と にかく良い年になることを祈るばかりだ。ブドウの房の数や大きさも、ほどほどだという。まあ今のところいい感じってというところ。

日本には日航で行ったのだけれど、サンフランシスコから成田までの飛行機の中で「東京タワー、おかんとぼくと、ときどきおとん」というのを、たまたま見 た。見ている間中、涙が出て止まらなかった。この映画のことを友達に話すのにオダギリ・ジョーという俳優の名前を覚えておこうと名前を繰り返して頭に入れ たはずなのに、なぜかしら所ジョージって名前が出てきてしまう。所ジョージって少し出っ歯(失礼!)のコメディアンだよねと一人で失笑。ついにノートを取 り出してメモをする始末。暗記力の衰えをここでも感じる。行きも帰りも同じ映画だったのが残念。さすがに何回も繰り返してみる気にはなれなかった。

梅雨真っ最中の東京から肌寒い札幌へ。羽田行きのバスを待っているときは「暑いから冷房の利いた室内で待っていてください。お呼びしますから」といわれて 室内で。千歳ではバスを待っている間、外は寒いのでビルの中で待つという極端さ。やけくそになった娘は「ここは冬か」とばかりにジングツベル、ジングルベ ルとクリスマスの歌を歌い出す始末。

ストックホルムで見たと同じ北国特有の淡い緑色の木々に心を洗われ、懐かしい友人、懐かしいススキノでたっぷり楽しんでしっかり充電してソノマに帰った。 薄ら寒い朝の霧、昼ころから現れる真っ青な空、ブドウの成長振りを眺めながらの運転。ワインカントリーでの暮らしに戻る。

2007年5月25日金曜日

初夏


ブドウ樹の若々しい緑色の枝が順調に成長している。枝の根元の部分は濃い緑、先のほうが透き通るような若葉色で埋め尽くされたブドウ畑は夕日を浴びて心が清められるような美しさだ。またしても「なんてきれいな土地だろう」とつぶやく。今、ブドウ樹はかわいい花を咲かせている。遠めには見えない。ブドウ粒になる花が葉の影でひっそりと咲いているのだ。畑を良く見回って歩く人はブドウの花の香の話しをしてくれたけれど、残念ながら私はそまだの香りを感じたことがない。
今年の冬は雨が少なかったことから、旱魃(かんばつ)気味になるのではと心配する声も聞かれたけれど、大きな心配事ということではなさそうだ。

今日は何事にも一般化できない例外があるとあらためて感じた3つの話題。 マウント・ヴィーダー(頂上がナパ・ヴァレーとソノマ・ヴァレーの境界線になっている)の頂上でブドウ栽培しているランドム・リッジというワイナリーがある。オーナーのビルが、彼のサンジョヴェーゼが3月の霜にやられたと嘆いていた。「僕の畑の栽培条件は低地の畑とはまるで違うんだ。もともと収穫量の少ないサンジョヴェーゼが今年はもっと少なくなってしまう」とがっかりしていた。こういう畑が霜やられたことなんか、新聞では取り上げないから、一般的には順調な春ということになる。

もう一つはオーストリアのワインジャーナリストのルジアとディナーをする機会があったときのことだ。一般的にヨーロッパではワインは常にディナーの一部として楽しまれていると思われている。私もそう信じていた。ところがルジアは「オー!ノー!、それは南ヨーロッパのことよ。特にフランスや地中海地方のことよ。北ヨーロッパはそうじゃないわ」と言う。オーストリアではアルコールは酔うために飲むもので、特別にワインが好きな人以外はディナーでは飲まない。飲むワインといったら、安いからというので国産のまずい白を飲む人が多いと嘆く。最近、世界的に高く評価される白ワインが生産され始めているけれど、それもほんの一握りのワイナリーで留まっているというのだ。フーン、なるほどね。ヨーロッパという言葉でひとくくりには出来ないのだなと、学んだ次第。

先週、西オーストラリアのテイスティングに行く機会があった。オーストラリアワインというと、カンガルーのラベルとか、バロッサヴァレーで生産されるこってりシラーズを典型的なワインと思っていた。(もっともこういうイメージを作り上げたのは、アメリカのメージャーワイン誌の責任という声もあるけれど)西オーストラリアは涼しい。そのため手ごろな価格の良質なリースリングが生産されている。カベルネはどちらかというとパーカーが有名になる前のボルドーによくあった、ちょっとアニスっぽい香りがする軽いタイプのものなのだ。シラーズはピノ・ノワール風な軽いタイプだし、シャルドネはミネラルの味わいがするクラシックなタイプのものが多かった。シャルドネの熟成具合はとてもよかった。(詳細はメンバークラブのサイトに記載)「ああ、オーストラリアのワインね」と一般化することはできないんだと当たり前のことを再認識。

いくつになっても学ぶことは尽きない。「ああ、カリフォルニアワインね」という一般化に当てはまらないことが多いということを、多数の方に知ってもらうのも私の役目の一つかもなんて、殊勝な気持ちになったというお話。

2007年4月22日日曜日

久しぶりの東京

4月中旬、カレラ・ワイナリーのジャシュ・ジェンセン氏の通訳として、外反母趾の術後の片足を引きずりながら東京へ行ってきました。ジャシュにとっては数年ぶりの東京訪問でしたが、相変わらずのカレラワインの人気ぶりに感動、そして驚いていました。こういう仕事で行くと、ゆっくりお話が出来ないのが残念ですが、セミナー、テイスティングで懐かしいお顔に会えてとても嬉しかったです。カレラ・ワインファンの方たちとのディナーでは、ワイン大好きの方たち、明るい素敵な女性たちにお会いできて楽しいひと時を過ごしました。

2007年4月21日土曜日

翼のない鳥

先日、血液検査の結果、私の胃にピロリ菌が住んでいる?ことがわかり、1日に4回も4種類の薬を14日間にわたって飲まなければならず、薬漬けという感じで暮らしています。アルコールは1滴もだめということで、数箇所でのテイスティングの予約をキャンセルして無念。スタッフの一人に「ワインが飲めないなんて羽のない鳥のようなものですね」といわれて、「うーん、全くそのとおりだわ」と変なところで感心してしまった次第。 

乳製品も薬を中性にしてしまうのでだめということで、こちらも頭痛の種。コーヒーショップへ行くと自動的にシングルカプチーノをオーダー。娘に「ミルクはだめでしょう」と注意されて、「あっ、そうだ」と気が尽く始末(ため息)。 あーあ、普通のコーヒーしか飲めないのかなと嘆いていたら、ソイミルクという手もあるよと言ってくれたので、豆乳でカプチーノを飲んでいます。健康食一辺倒の女性になったみたいで奇妙な気持ちです。

ディナー用のワインを買いながら、自分が飲みたいワインも買って、これは17日後まで取っておくことと指示し、レイと娘には私が飲まなくても後悔しないワインを飲ませるという小細工をしています。それでも私に同情している二人は文句も言わずに飲んでいました。ワインを飲まないと食事が早く終わってしまうし、あんまり話をする気分にもなれず、娘とレイの会話をどっちらけで聞いているだけで味気ないものです。

手術後、9週間がたって、腫れが徐々に引いて、後数週間で普通の靴が履けると張り切っています。5月になると胃のほうも健康になるはず。歩きやすくなった足と快調になった胃を得て、新しい表情をもつワイン トークのサイトとともに羽ばたきたいものです。

2007年3月8日木曜日

アーネスト・ガロ氏死去

3月7日付けの地元の新聞によるとガロ・ワイナリーの設立者、アーネスト・ガロ氏が亡くなったという。享年97歳だった。

イタリア移民の子供だったジュリオとアーネスト兄弟は禁酒法廃止後、1933年にワイナリーを設立し、アメリカワイン市場最大の売り上げを誇る巨大ワイナリーに拡大した。また毎年一定した質のカリフォルニアワインを海外に広めたのもガロだった。 アーネストがワインのマーケティングとプロモーションを、1歳だけ若い弟のジュリオがワイン生産とブドウ栽培を担当。二人三脚でかなりごつい商売を繰り広げた話は、よく耳にしたものだ。 ジャグワイン(大瓶に入ったデイリーワイン)でほぼ市場を独占していた時代を経て、プレミアムワインが優勢を誇る時代に入ると、そのマーケットの変化に合わせてソノマに大型ワイナリーを設立し、大型ではあっても孫が経営を担当しているファミリー経営のワイナリーであるというイメージを売る賢いマーケティングを展開、プレミアムワインの市場でも成功を収めている。

ガロファミリーは悲劇的な物語に包まれていた。兄弟の父親は大不況がアメリカを襲った時代に借金が重なり、妻と心中してしまった。またジュリオは1993年にジープの事故で死亡。乳製品を生産していた末の弟ジョセフとはガロという名前をチーズにつけるつけないで法廷で争い、弟が敗訴し、それ以来、兄二人とは言葉を交わすことなく、87歳だったジョセフはアーネストが亡くなる3週間前に死去した。 10年ほど前にお会いした時には80代になっていらしたと思うが、現役のビジネスマンとして才腕をふるっていた。鋭い目に時々優しさが宿るかくしゃくとした老紳士で、尊敬の念を抱いたのを記憶している。 カリフォルニアワイン産業界における世代交代が確実に進んでいる。カリフォルニアワイン史に大きな足跡を残したパイオニアが消えた。

2007年2月11日日曜日

スーパーボウル

イエス! 遂にコルトが優勝。
49ナーズがほとんど最下位チームになってちょっとめげていたけれど、コルトがスーパーボウルで優勝して嬉しい。コルトのコーチ、トニー・ダンジーはタンパ・ベイで強いチームを作り上げた矢先に追放されて、その年に別のコーチ(オークランドのレイダーズのコーチだった)が、ダンジーが作り上げたチームで優勝したり、無敗でシーズンを終えたのにプレイオフで負けたりで、なかなかスーパーボウルまで行き着けなかった。
信仰深さからくる穏やかな表情、謙虚で秘めた闘志を持ちながら、不運な彼を、私はいつも応援していた。クオーターバックのマニングも素晴らしい成績をシーズン中に残しながら、プレイオフになると勝てなくて、その重圧が彼の肩にずっしりとのしかかっていた。その二人が遂にスーパーボウルで優勝を果たしたのだから、心が温まった。ワイドレシーバーのハリスも決して目立った行動はせず、しっかりとボールをキャッチして静かにボールを置いてまた試合を続けるというクールさで、チームのイメージにぴったりのプレイヤーだ。スーパーボウルでもキーポイントできちんとボールをキャッチしていた。でもゲーム後に目立とうとテレビカメラの前に出てくることはなかった。
 

スーパーボウルのゲームの日は二つのイベント?があって、忙しかった。11:30から我が家でブランチ。シャンパンとワインをたくさん飲んで、お腹一杯、料理を食べた。これはベトナム旅行の写真をスライドにしたのをみんなで見るための集まりだった。ゲストも入れて全部で10人。ミモザ(シャンパンとオレンジジュースのミックス)で乾杯。カヴァ、ブーブ・クリコ、スラムズバーグ、グローリア・フェラーとシャンパンを結構飲んだ。ベトナムでいつも麺類を食べたので、レイが前の晩3時間かけて、スランティングドア(サンフランシスコにある人気のベトナム料理のレストラン)のレシピーを元に麺類のスープを作った。それにベトナムのミートボールのサンドイッチ、これは絶品だった。 
写真の私はカメラを無視して横向いているか、笑っていない顔ばかりだったと旅行のメンバーの一人、たくさん写真を撮っていたブラッドが言ったので、みんな賛成の表情で笑った。「ふーん、そうだったかもね」と私は独り言。 

スーパーボウルは3:30から始まったので、ランスの家に移動。スーパーボウルは彼に家で見るのが習慣になっている。常連のダグとスーザンが、もう来ていた。サンディとランは、コマーシャルだけ楽しみに見るのが、毎年の慣わし。ここでは白ワイン、そして赤ワインをたくさん飲んだ。銘柄は覚えていない。(スーパーボウルに気を入れていたので)スーパーボウルスペシャル、チリホットドッグ、BQ,チップスとここでもたくさんの食べ物とワイン。 
ゲームが終わってからも、彼たちはまだ飲み続ける。私はもう降参。それでも家に帰ったのは10時を過ぎていた。イベントを楽しむのにも体力がいる。

2007年1月11日木曜日

ベトナムの旅





1月3日にベトナムから帰ってきた。「どうだった?」ってみんなに聞かれる。返事は簡単ではなくて、「うん、とてもインタレスティング。すごいエネルギーだった。衛生状態はちょっと良くないかな」というあいまいな言葉になってしまう。
「グレート!また行きたい。すごく楽しかった」とかいうのが普通、旅をしてきた人から聞く言葉なんだけれどね。 でも行ってよかった。
冷房の効いた大型バスから道や人々を眺めて、高級ホテルへ宿泊して、買い物をするというのではなく、9歳のときにベトナムを離れたという友人、ベトナム語を話すランと彼女の夫のステーヴ、友人のベスとブラッドのカップル,それに私たち家族3人と7人の旅で、ガイドさんは付いていたけれど、それでも地元の人との交歓がある旅だったので、低開発国を肌で感じることが出来た。

人口800万というサイゴンから旅は始まった。すごい空気汚染で外に出ると目が痛くなるし深く呼吸すると咳きが止まらない。道路という道路はオートバイの洪水で、車は珍しく、クラクションを鳴らしっぱなしという感じでオートバイの中を掻き分けて走る。ホンダの名前があちこちで見られたし、日本の最大の顧客だろうなと思った。ガイドさんが日本が最大の投資国ですと言ったので、なるほど。
日本やカリフォルニアの大都市は車の洪水だけれど、それをオートバイに置き換えたらぴったりだ。ルールがないようで、それでいて一定の暗黙のルールで走っている。車のクラクションは鳴らし方に意味があるらしく、時によって鳴らすリズムや回数が違っていた。道路わきに住んでいたら、ひどくうるさいだろうね。トラックがなくても大丈夫とばかりにいろんなものをオートバイで運んでいるし、赤ちゃんを含めて4人乗りなんてこともしている。オートバイは規則では二人以上乗ってはいけないということになっているのだけれど、今日は土曜日なので警察が黙認しているのだと、ガイドさん。自転車の人はちょっと引け目があるという感じで走っていた。
  クリスマスの夜に付いたので、サイゴンの有名な教会がある広場は人で埋め尽くされていた。夕食を終えて帰るのに、車なら立ち往生していつホテルに着くかわからないから歩きましょう、ということになってオートバイと人で身動きできない道を歩いて帰った。道を横断するときはスリルに満ち溢れていた。オートバイが腕に触れる位置まで押し寄せてくる道を「みんなで歩けば怖くない」と信じてゆっくりと止まらずに走らずに歩いていくのだ。途中で10代のグループがアメリカ人を見て「わーい!」といって紙ふぶきを浴びせてきた。汗びっしょりのレイとベスが紙ふぶきをたっぷり浴びて、顔や首筋にくっつき、シャワーをしても全部取れてなかったほどだ。アジア人の私は邪魔よといわんばかりに筋肉が締まったグループの女の子に跳ね飛ばされた。


翌日、メコンデルタへ行ったのだが、距離的にはそれほど遠い所ではないのに、恐ろしく長い時間がかかった。その主な理由はサイゴンを出るのと、ホテルへ帰るときに交通渋滞で片道に2時間以上かかったからだ。サイゴンを抜けると少し交通量が減ったけれど、それでもオートバイが目に入らない道路はなく、人口密度の高い国であることを実感。1世代前までは子供は5-7人が普通だったのが、今、ようやく二人くらいに減ってきたとのこと。メコンデルタのほうへ行くと水牛が畑を耕していたり、薄茶色の牛が道路脇に鎖につながれて、それでも車やオートバイにはおびえていなくてあどけない表情で寝そべっていたり、4匹の豚を金網の折に入れてオートバイで運んでいたりと、のどかで貧しくて第二次世界大戦前の日本てこんなんだったのかなと思った。 
  メコンデルタのあの込み入った運河?と近代人には理解できない文化と暮らしをもつ人々を相手に、戦争をしたアメリカの無知と傲慢さ、そして刈り出された若い戦士たちに思いが飛んだ。しかもあの戦争に懲りずにまた全く文化も宗教も習慣も違う、理解が出来ない国、イラクを相手に戦争を仕掛けたアメリカというか、ブッシュ内閣に、旅の全員がうんざり。 メコンデルタの絵葉書や帰りに飛行機で読んだ機内誌(アメリカ人が書いていた)の写真はやらせ?だね。実際に見た風景は写真のようにカラフルでもなかったし、写っている女性は絶対にモデルだよねという感じなのだ。この辺はやっぱり開放政策を取っているといっても共産国だなと変なところで感心した。
  メコンデルタでのランチは、共産国になる前の地主の豪華な屋敷をホテルとレストランに変えて、暮らしを立てているというところで食べた。とても優雅な応対と流暢な英語で歓待されて、食事も美味しく楽しかった。娘はここで食べた魚でお腹の調子を崩したけれど。すぐに食事をするのかなと思っていると、庭を見たいですか?と南洋の植物とフルーツが実っている庭をゆったりと歩く。時間の感覚が違う。


ナ・トラングへ飛行機で飛び、素晴らしいリゾートホテル(テレビも電話もなく静かに休む静養所という感じ)でゆっくり。海の色が美しい。漁船が夜になると灯りをつけてたくさん出てくるのを眺めた。ベトナムの女性は日に焼けるのを嫌うので、日中は誰も海にはいなくて「クレージーなアメリカ人だけが海に出てる」というわけで波乗りを楽しんだ。このホテルにはヨーロッパ人はいたけれど、アメリカ人は初めてだということだったし、日本人は見なかった。緑色のきれいな芝生はいつも水をまいているわけだから、いくら殺虫剤をまいていても蚊が生存しているので、肌がソフトな娘は脛中、蚊に刺されて、ちょっとぎょっとしたけれど、熱も出なくてほっとした。このホテル滞在の4日目、最後の日は冬から春の気候パターンに変わったとかで、温かい雨が降り出した。

  また飛行機でダナングへ移動。古い歴史のある街、ホイ・アンに宿泊。古いのは素敵だけれど、下水設備があまりきちんとしていなくて、雨がしとしと降って、いろんな臭いがして、ちょっとつらかった。ガイドさんが市場にある手作りのヌードル(うどん?)が美味しいという店に連れて行ってくれた。食べる前にトイレに行ったベスが、キッチンを見て「とてもインタレスティング」といった。私は肯定的なコメントと考えていた。曇ったガラスのコップと袋に入った割り箸ではなくて箸たてにはいっているのを使うのにちょっと抵抗があったけれど、ベスの恋人のブラッドが持参した殺菌用の紙でグラスを一つ一つふいてくれたし、勇気を出してエーイ!とばかりに箸を取り出して、うどんを食べてビールも飲んだ。グループはベトナムのビールを全種類飲むというので、毎日違うビールをオーダーしていた。うどんはとっても美味しかった。いろんな生のハーブが盛ってあってこれもなかなかいい味がした。でも向かいに座っているベスとブラッドは、これはなんていうハーブかな、なんて箸でつまんでみたりして関心を示しながら、さりげなく食べずに残していた。食事の後にトイレに立って、見たキッチンにショック。ベスはそれを知っていて生ハーブを食べなかったのだ。
  この古い町には大型バスでやってきた日本人の観光客がたくさんいて、熱心に買い物をしていた。買い物をしているときには値段の交渉をしないとあほだとバカにされるから75%から50%(これだと大成功)に負けさせるように交渉しなさいとランに言われたので、交渉は苦手だったけれど、交渉した。素敵な手で刺繍したバックを10ドルだったのを8ドルにまけてくれた。嬉しさ半分と、これを作っている人たちの賃金て、信じられないほどに安いんだろうなと、同情が頭の中を掠めた。でも使い始めて1週間後に持つ部分の紐が壊れた! アメリカ系ベトナム人であるランはツーリストはしないという方針だったので、カフェも地元の人が行くカフェへ入った。コーヒーは確かに美味しかった。ここでもまたブラッドが曇ったガラスのコップを拭いてくれた。コヒーカップは拭いても取れないほどに黒くなったシミがカップ内に染み付いていた。ランが9歳でベトナムを離れて、初めて戻ってきた彼女の国なのだから、ここで「これは飲めないわ」とは言えないと覚悟。飲み口のところをティッシュペーパー(持参)で拭いたら少し黒いのがはげたので、そこから飲んだ。ベスに「ティッシュいる?」と聞いたら「ノー・サンキュー!」と言って、なんときれいに拭いた小さなおもちゃみたいなスプーンで飲んでいるので思わず微笑んでしまった。
  一緒に行ったグループの私たちを除いた4人は全員が科学者なので、蚊に刺されることとか、下痢をしないようにということとか、きちんと対応していた。それが突然ランがその衛生観念から離れて、何も言わずに衛生的とは言えない料理を食べ始めたので、ちょっと驚いたけれど、彼女が9歳のときに離れた自分の国に愛着を感じたのと、この国を好きになりたかったんだろうなと思う。 フランスの植民地だった国だから、フランスの影響を受けているし、ちょっとしたレストランで飲んだフランスワインはレイがどうしてこんなに安く出せるんだろうと首を傾げるほどの値段で飲むことが出来た。 

  ここで娘と私は帰国する日がやってきた。後のグループは残って自転車に乗ったり、北上して山登りをしたりする予定になっていた。娘の仕事の都合で10日しか休暇が取れないことから、一人で帰すのは心配なので、私が一緒に帰ることにしたのだけれど、内心、いい結論だったとほっとした。
  帰りがまた大変。朝5時に起きてダナングからサイゴンへ飛んだ。サイゴン国際空港(一応)で8時間台北行きを待たなければならない。旅は慣れているので、空港内であちこちのショップを見たりして過ごせばいいと思ったのが大間違い。3時まで通関を通れないという。たった一つローカルの人たちが利用するレストランがあるだけ。幸い冷房が利いているので、そこでうどんやポテトフライ、ビール、コーヒーを飲んでタバコの煙にむせながら4時間を過ごした。二人で旅していたので、おしゃべりに夢中になって、本を読む必要も音楽を聴く必要もなく5時間をこのレストランで過ごせた。 3時間の飛行時間で台北、ここからサンフランシスコ行きへ乗り込んだ。各席にはテレビがなく、ふてくされて眠りこけた。
 ようやくサンフランシスコへ付いたら、ものすごく寒い。そして私の車のバッテリーが上がっていた。さらにいつもと違うパーキング場を使っていたので、帰り道が違って、なんとサンフランシスコ市内に紛れ込んでしまい、娘のアパートにたどり着くまであちこち市内を走り回ってひどく時間がかかった。二人で日本食を食べて機嫌が直り、さて娘をアパートに送ってソノマへ帰ろうと、車のラジオをつけようちょしたら、バッテリーが上がったためにラジオはシャットアウト。コード番号、エラーという文字が出るだけ。音なしで一人で黙々と暗い道を運転してソノマへたどり着いた。
  翌日目が覚めたら、午後の2時だった。 ベトナムの5年後は多分中国を追っているだろう。レイはまたそのころ行って見たいといっているけれど、うーん、私はどうかな?