2008年7月15日火曜日

バンコクでカリフォルニアワインディナー(その1)



タイのバンコクに来ている。気温と湿度がすごく高い。タイの季節は、ホット、ホッター(暑い、すごく暑い)があるのだと、笑いながら地元の知人が教えてくれた。今はそのホッターの季節なんだそうだ。
外へ出るとメガネが曇るくらいに暑いのに、レストランやホテルはエアコンががんがんに効いていて、寒くて震えてきた。喉がひりひりして風邪をひきそう。
バンコクで2つのワインイベントに出席。
Harvey というレストランとフォーシーズンでカリフォルニアワインディナーが開催された。
弟1日目:Harveyはアメリカン料理を出すレストランで、若いアメリカ人のシェフがカリフォルニアワインとマッチするカリフォルニア料理を作ってくれた。70人ほどのお客さんが参加して、熱心にそしてリラックスして相棒の話に耳を傾けてくれた。
メニューはツナのたたきにわさび入りのアボカド、イセエビのグリル、さっと焼いたフォアグラ、ラム。タイのスパイスをうまく使って、なかなかのものだった。
アペリティフはクオディのelectra(エレクトラ)というデザートワインを炭酸水で割って、細かく切ったイチゴを入れてあった。なかなかのいいアイデア。イチゴの代わりにラズベリーでもいいかな。暑い夏の日の夕方のアペリティフにぴったり。
ツナのたたきにPine Ridgeの2007年白ワイン(シェナン・ブランとヴィオニエのブレンド)この白ワインは値段も手ごろで、とっても飲みやすい。
イセエビのグリルに 2006年Alexander Valley Estateのシャルドネ。
フォアグラと 2005年Shaferのメルロー。この組み合わせは絶対に外れがないよね。
ラムには 2005年Pine Ridge Rutherfordのカベルネ・ソーヴィニヨンと2003年 Laurel Glenのカベルネ・ソーヴィニヨン。ナパの低地、ルサフォードの華やかなカベルネとマウンテン・グレープである締まった抑制の効いたカベルネの対象が面白かった。どちらもラムによくマッチ。
デザートは クオディのEssensia(エッセインシア)とネーミングされたオレンジマスキャット。シンプルだけど甘さも程よく楽しいデザートワイン。
この夜のワインは全てEisch(アイシェ)という会社のブリーザブルグラス(空気が通過するグラス)で出されていた。我が家でもこのグラスをよく使う。まず普通のグラスで飲んでみて、もう少しワインを空気に触れさせてソフトになった状態で飲んでみたいときにブリーザブルグラス使う。そして二つのグラスを並べて、味を比べてみる。ワインによっては、ブリーザブルグラスでないほうが美味しいときもあるからだ。
2つの白ワインはブリーザブルグラスでないほうが、フレッシュなフルーツ味を楽しめたのではないかと思った。特にシャルドネは一気に新鮮さが消えてだれてしまった。メルローは華やかな香りが出て、口当たりがよりソフトになっていた。カベルネはブリーザブルグラスで正解。香りがきれいに立ち上がってきた。
タイのワインワイン文化は東京と比べると、まだまだ幼年期。でも朗らかに熱心に楽しくカリフォルニアワインを飲んでくれていて、嬉しかった。

2008年7月11日金曜日

Sun Flower Cafe




私はコーヒーが大好きだ。いろんな国へ行くけれど、まずコーヒー。それからワイン。東ヨーロッパから帰って時差ぼけが治ったので早速行きつけのカフェへ出向く。好きなカフェが2つある。この2つのカフェのカプチーノは、世界のどの国のカプチーノにも負けないくらいに美味しい。もっとも作る人によって味がとても違うけれど。今日はプラザのコーナーにあるSun Flower というカフェに行った。マルコという青年とタラという小柄な女性が、とっても美味しいカプチーノを作ってくれる。特にマルコはイタリアでエスプレッソの入れ方を叩き込まれたそうで、いい腕をしている。入り口に近い席で、向かいの公園を眺めながら、カプチーノを飲むと、ソノマに帰ったなあという気持ちになるのだ。
裏にガーデンがあって、お天気のよい日は、ローカルがランチに、そして週末はツーリストがたくさんやってくる。サンドイッチやサラダも、質がいいのだ。
インターネットもフリーだし、ここで原稿が書けると最高なんだけれど、なんせ人気のカフェなので人の出入り多くてざわざわしていて集中できない。週末に読み物をしていたら、知らないおじさんが、仕事ちゃんとやってるかい?なんて、冷やかし半分に声をかけて通り過ぎた。
だからここは友達とランチをしたりだべる場所に使っている。
木、金、土、日は夜の9時までオープンして、来月からワインも出すというので楽しみだ。ソノマに来る機会が会ったら、寄ってみてください。(別に宣伝費をもらっているわけではありません)
タイ、そして日本へ行く準備であわただしい。

2008年7月5日土曜日

独立記念日



ソノマの町の独立記念日はプラザでのパレードで始まる。娘が幼いころは人ごみが苦手な私も、娘を連れて歩道に座って、どうってことのないパレードを見物したものだ。
娘が大きくなってからは、パレード見物はパス。毎年午後の3時ころから友人たちが我が家にやってくる。今年は18人ほどがやってきた。圭子さんはカリフォルニアロールを、スーザンはデザートを、後はワイン、ビール持参でやってくる。まずはプールでひと泳ぎ。その後ゆったりと浮かんでいる。相棒はせっせとBQ チキン、ツナ、リブと、いつものように大量に作っている。私はアジア風のコールスロー、娘はポテトサラダ。毎年、友人たちが期待しているメニューなので変えない。
今年は娘の高校時代の友人が数年ぶりにやってきた。同じ顔なのに、大人っぽくなっていて、娘だけではなくて、母親の私も懐かしく嬉しかった。夜遅くに帰ってくる彼女たちに小言を言ったこともあった。その話をして娘と友人たちと大笑い。同じ年の幼馴染のリンジ一は1歳になる女の子がいる。今年は赤ちゃん、圭子さんのお嬢さんの中学生の女の子、そして私たちの古くからの友人が一同に集まって、良きアメリカの大家族風で、ちょっと気恥ずかしい感じ。
食べて、飲んで、泳いで、夜は花火大会に行く組と、我が家の残ってだべり続ける(飲み続ける)組に分かれる。私は日本で両親に連れられて花火大会に行っていた思い出が強く残っているので、絶対に花火を見に行く。娘と友人のブリジットを車に乗せて、小さな椅子、ブランケットを持って出かける。日中は暑くても、夜は気温が15度ほどに下がるので、かなり寒い。我が家もささやかながら寄付金を送った。ドンと上がる一つの花火の10分の1くらいかな?
暗くなる10時ころにどーんと花火が上がる。ピクニックをしていた人たちが歓声をあげる。花火が見える近くのレストランとか家々では、パーティをしている。花火が真上に見える野原に明るいうちから陣取ってピクニックをしている家族やグループも多い。暗くなるのを待っていると、だんだん冷えてきた。単発花火が多くて、日本の花火大会とは比べものにならないけれど、新しい形と色の花火が上がると、みんなで拍手喝さい。ソノマって、こんなにたくさんの人が住んでたの?って驚くほど、多くの人が野原に集まっていた。真上にパット開いて燃え尽きた灰が顔にかかるかなって、心配するほど花火が近くに感じられるのは、小さな町の花火大会だからこそ。
花火が終わって、若者が集まるバーに行くことになっていたのだけれど、寒いし、疲れたというので、家に帰ってきて、アルコールではなくて熱い紅茶を飲んだ。
平和で穏やかな独立記念日。

2008年7月1日火曜日

16日ぶりのソノマ


空はからりと晴れて湿度は低く、涼しい風が吹く。ソノマの気候はしのぎやすい。数日前まではいくつかの山火事の煙がひどくて、我が家の裏庭から山が見えないくらいだったという。
地元の新聞にざっと目を通す。プラザの公園に住む鴨の親子の記事。ブダペストの公園の池にいたかも親子より一回り大きい。赤ちゃん鴨にパンをあげるのは健康を害するからやめようという記事が一面に大きく取り上げられている。パンを持って公園にやってきて鴨の親子に与えるのを楽しみにしている市民が多いけれど、パンは炭水化物だけで、他の栄養分がない。でも満腹になるので、ミミズとか栄養分になるものをさがさなくなってしまう。すると栄養失調になって死んでしまうというというのだ。
次のページには、町の散歩道に面している家のバラの木が大きくなりすぎて歩行者の妨げになるから切り払うように、と市からの通告が届いたけれど、バラの木をそれほどシビアに切ることはないんじゃないのという記事をその家のカップルの写真入で掲載。
ソノマは平和な町だなあという感慨にふける。スーパーへ行っても、働いている人はとてもフレンドリーで親切。それになんといってもスパースがゆったりしていて混み合っていないのがありがたい。昨日、空港からの帰りに寄ったサンフランシスコのスーパーは人で一杯。レジの人たちもフレンドリーにしている暇はない。
少々退屈でも、やっぱりいい町。

2008年6月29日日曜日

アウシュヴィッツ



Krakowからアウシュヴィッツまで1時間以上かかった。アウシュヴィッツの近くにいくつかの町があった。すぐ近くにもあった。ガス室で殺された遺体を燃やす煙が上がるのを見たり,風の向きでその臭いがしたりしたとき、住民はどんな気持ちで暮らしていたのだろうかと思いながら、町を通過。
アウシュビッツ1に到着。大型のバスがたくさん駐車されている。たくさんの人が訪れていて、観光地という感じなので、ちょっと驚いた。博物館を通って外に出ると、石やレンガで造られた建物が並んでいる。博物館の入り口近くにポーランド人でユダヤ人を助けるのに貢献した人たちの写真が、まず並んでいる。こんな残虐な行為がこの国で行われたけれど、いい人もいたということを強調してるんだなと感じたけれど、そういう人たちもいたことを考えないと、国として絶えられないよね。ここにはロシアやポーランドの戦犯とユダヤ人が収容されていた。
ガス室が残っていた。少々しり込みしながら、窓一つない中へ入った。入り口に「この建物で何百万という人々が殺されました。その死に思いをはせ、冥福を祈って静かにお入りください」と書いてあった。シンドラーのリストという映画は、このガス室をモデルに再現されていた。アウシュビッツ1だけでも広大な敷地を占めているのに、なんと5つの収容所が、それぞれ離れた土地に建てられている。
車でビルケナウというアウシュビッツ2へ行った。ここまで来る人はアウシュビッツ1より少ないらしく、ひっそりとしていた。同じ形をした木造のバラックが、何軒も何軒も遠くまで延々と続いている。目もくらむほどの広大な土地。証拠隠しに焼いたバラックのあとに半分ほど崩れたレンガの煙突が、ずうっと遠くまで立っていて、その光景がさらに延々と続く。線路が敷地の終わりまでまっすぐに走っている。ここにユダヤ人を満載した列車がやってきて、すぐ殺戮する列、強制労働に使う列にわかられて、バラックに収容され、やがて2つあるガス室でシステム的に殺害された。ここだけで160万人。札幌の人口と同じ数?
線路に沿って走っている道路の終わりに、いろんな国の言葉で「この過ちを二度と繰り返しません」と書かれた石盤が設置されている記念碑があった。その両側にダイナマイトで証拠隠しに破砕したガス室の瓦礫がある。たくさんの訪問者がいるのに、この場所はしんとして静寂で、ポプラの木の葉が風に吹かれてこすれるさらさらという音が聞こえた。気が沈んだ。まっすぐに入り口まで続く道を、娘と二人、無言のまま戻る。
タンクトップを着てジーンズをはいた世界のいろんな国からやってきた若者たちを見て、ノーマルな気持ちに戻って、平和な時代に暮らしていることを感謝。もっともイラクの国民たちは、平和とは程遠い現状に置かれているけれど。
相棒が静かな声で「チェコへ戻ろう」と言った。娘と二人うなづいて、無言で車に乗り込む。
この旅の出発点、プラハに戻って、2日ほど過ごして、プラハからヒースロー空港、そしてサンフランシスコへ帰る。

2008年6月28日土曜日

ポーランド


ブダペストでののんびりタイムを終えて、ロンドンから戻ってきた相棒が運転する車でスロヴァキアを通過してポーランドへ向かう。
ブダペストで過ごした娘との時間は私の宝物。こういう旅を再び一緒にすることができるのは、彼女が法律の学校を卒業して、仕事を始め、時間的な余裕ができたときだろうから、あと最低数年はかかる。娘が5歳のときに相棒がドイツでVMWのキャンピングカーを買って、2ヶ月、あちこち旅をしたときから、数年毎に世界中のいろんなところをめぐった。私たち3人は旅のチームだ。けんかをしながら、ずいぶんといろんな国を回ったものだ。
国境を越えるとき、私たちはちょっと神経質になるのだけれど、今のヨーロッパは国境があってないようなもの。カリフォルニア州からオレゴン州に入るのと似たような感覚だ。道路の標識の色が変わる。村や町の名前はハンガリーでもスロヴァキアでもポーランドでも、どう発音するのかほとんど見当さえ付かない。YXVKSYといった感じで、視力検査のときにずらっと並んでいる文字を見てるみたいだ。
スロヴァキアは山が多い国。それでも麦畑が目に付く。ヨーロッパ人が食べるパン、パスタ類はすごい量なのだろうね。スペインやフランスへ行くと、畑にできるところはすべてブドウ畑という感じだけれど、東ヨーロッパはすべて麦畑、続いてとうもろこし畑だ。国道は2車線で、ソノマのローカルの道路みたい。小さな村をいくつも越えてポーランドへ向かって走る。ランニングシャツで花畑に水を上げてるおじいさん、ビニール袋を提げた買い物帰りの女性。小さな村の人々の営みを肌で感じる。スロヴァキアにはフランスやドイツで見るお城はひとつしか見えなかった。建物は質素。
ポーランドへ入った。突然、建物は三角屋根の2二階建て、3階建てに変わった。3人が今回の旅で最後に訪れる国、ポーランド。東ヨーロッパというとソ連の統括下に置かれていた暗い時代、そしてナチが殺戮を繰り返した第二次世界大戦を考えずにはいられない。私たちはナチがシステム的にユダヤ人を殺戮したアウシュヴィッツを訪問することにした。そこでアウシュヴィッツに近い都市、Krakow まで6時間かかってたどり着いた。ワルシャワはブダペストから10時間かかるから遠すぎる。ポーランドは平らな土地が地平線のかなたまで続く。麦畑、そして落葉樹の森、小さな村、村とはいえない10軒ほどの家が散らばっているところ、中くらいの都市をいくつか通過してKrakowに着いた。
翌日、ロシアの国境近くにある小村を訪れようと、田舎道を走っていたら、二人の若いパトロール兵に止められた。
「パスポートは?」「ホテルに置いてきた」
「500m向こうはロシアだよ。ロシアの国境だということを知ってますか?」
「えっ、ロシアの国境なの?どこどこ」初めてたどり着いたロシアの国境にちょっと興奮して、思わず体を乗り出してしまった。相棒が「GPSで走ってるから、ロシアの国境がどこかわからなかった」と答えた。相棒の運転免許証を見て「カリフォルニアから来たの?なんで車をプラハでレンタル?」
「娘が学校に行ってて、それが終わったので3人で、ハンガリー、途中でロンドン、それからポーランドへ来た」と相棒が答えたら、若い二人の兵士は「クレージー!」と笑っていった。ついでに相棒が探している小村の名前を言って、この近くかどうか聞いたら、「ここから10km。まっすぐこの道を行きなさい。チェコでは車のライトはつけて走るのが規則だから忘れないで」と念を押してくれた。英語が話せるパトロール兵でよかった。もし英語が通じなかったら、大変だったわ。
小村と小村の距離が離れている。中くらいの都市も少ない。それぞれの村が隔離されている。大都市ならユダヤ人殺戮の計画を徹底させるのは、ある程度容易なことはわかるけれど、ど田舎で、インターネットもテレビもない時代に、どこにユダヤ人が居住する群落があるかを調べて虐殺を繰り返した徹底振りが信じられない。全ヨーロッパをその影響下に統括したヒットラーの狂気。人間はたった一人の狂人に、これほどまでにコントロールされることがあるのだということを、ポーランドの田舎で感じてぞっとした。
明日、アウシュヴィッツを訪れて、その後、この旅の出発点、プラハに6時間かけて戻る。

ブダペストでの数日 



相棒がロンドンでテイスティングの仕事をしている数日間、娘と二人でブダペストで気ままに数日間を過ごした。チェコともオーストリアともドイツとも違う、華やかで華麗なマジャール王国が残した文化。私たちはすっかり気に入った。ソ連が戦車を持ち込んだ痕跡はすっかり消えている。
私たちの1日はホテルの朝食で始まる。ニシキライス(カリフォルニアに錦米というのがある。もしかしたらカリフォルニア米?)に味噌汁があった。でもこれはカリフォルニアでは全く珍しくないのでパス。私はヨーグルト、チーズにハム、ぱりぱりで甘みさえ感じさせる緑、黄色、白、緑、赤の生のピーマンの薄切りを毎朝食べた。もっともだんだん同じ朝食で飽きてはきたけれど。
それからおもむろに町へ出る。ホテルがオペラハウスのすぐ隣なので、外へ出ると、練習をしている歌声が聞こえてくる。
お気に入りのカフェ、Mirveszへいって、まずはカプチーノ。こんもり茂った道路沿いの木々が歩道にあるテーブルと椅子に程よい木陰を作っている。ある朝、ジプシーの女性が一人よろよろと歩いていて、ズボンが脱げそうになった。そのときにポケットからコインがこぼれ落ちた。あらあらと思って眺めていたら、そのコインを手にとって、何やら言いながらを私に差し出した。「えっ、私にくれるの?まさか」と思った瞬間、二人のウエイトレスがさっとやってきて、両手をジプシーのほうにかざしてストップのジェスチャーをしながら静かにでも毅然として何かを言っている。多分、警察を呼ぶわよって言ってるのだなと思った。そのウエイトレスの二人はモデルのように美しいのだ。ここのカフェは美人しか雇わないのだとみた。100年の歴史をもつカフェ。次に勇んでやってきたのも、多分、マネージャーなのだろうけれど、またしても美人の女性。ガードマンというような男性はいなかった。ジプシーの女性はあきらめた様子で立ち去った。3人のウエイトレスがそろって、美しい顔を曇らせて「アイムソーリー」。美人ウエイトレスたちは優雅に毅然としてジプシー女性を立ち去らせたのだった。
ブダペストの夏は暑い。日中は40度Cにも上がった。湿度は35%だったから、少し蒸し暑いという感じで、木陰に入ると涼しい。地下鉄で数駅ほど行ったところにとても大きな公園があって、役所、大使館、城、美術館、博物館が並んでいる。あまり暑いので、冷房が効いた美術館へ行くことにした。現代美術を楽しむ。公園の池の上の立つレストランでランチ。グラスで白ワインを注文したら、「どこから来たの?」とウエイトレス氏が聞くので、カリフォルニアと答えたら、「ケンダル・ジャクソンのシャルドネがあります」というからあわてて、「地元の白ワインが飲みたい」といったら、「冗談です」。ハンガリー産のピノ・グリを飲んだ。フルーツ味は、まあ、まあ、でも酸がしっかりしている。暑い日のランチにはぴったり。チェコのワインと比べるとハンガリーのワインのほうが総体的に質がいいようだ。
エアコンが付いていない地下鉄は蒸し暑くて不快。木陰のサイドを歩くほうが涼しいので、地下鉄に乗るのをやめてホテルまで歩いて帰った。
夕方、食べて、飲んで、だべる、若者たちがあふれているカフェ、レストランが立ち並ぶ通りで、軽く食事をした。暑いので私はロゼ、娘はビール。ハンガリー(チェコでも同じ味だった)のスープであるグーラッシュ、子牛シチューにあきて、サラダしか食べたくない。
ハンガリーのアイスコーヒーは日本のクリームパフェみたいだった。細長いグラスにコーヒーが少し、あとはアイスクリームと生クリームがこんもり。ほんのりと甘い。蒸し暑くてだれているときに、ほんのりと甘いこのコーヒーがエネルギーを与えてくれることを知った。
ふとストリートの角を見ると、朝に見たジプシー女性が働いて(?)いる。避けずにまじめに彼女の話を聞いているカップルもいる。お金をあげたのかどうかはわからないけれど。グループで働くジプシーは一度も見かけなかった。もうこの国にはいないのかも。私が見たのは二人だけ。サンフランシスコよりホームレスは少ない。
どんな小さな村でも、荘厳な建物が立ち並ぶ歴史豊かな古都でも、近代都市でも、そこに暮らす人々の食べて、寝て、働いてという暮らしの根っこは変わらない。それぞれに不満や希望を抱いて生きていく。ソノマを離れて、言葉も習慣も違う、さまざまなヨーロッパの国の人々をみて、当たり前のことを再確認。