2008年6月28日土曜日
ポーランド
ブダペストでののんびりタイムを終えて、ロンドンから戻ってきた相棒が運転する車でスロヴァキアを通過してポーランドへ向かう。
ブダペストで過ごした娘との時間は私の宝物。こういう旅を再び一緒にすることができるのは、彼女が法律の学校を卒業して、仕事を始め、時間的な余裕ができたときだろうから、あと最低数年はかかる。娘が5歳のときに相棒がドイツでVMWのキャンピングカーを買って、2ヶ月、あちこち旅をしたときから、数年毎に世界中のいろんなところをめぐった。私たち3人は旅のチームだ。けんかをしながら、ずいぶんといろんな国を回ったものだ。
国境を越えるとき、私たちはちょっと神経質になるのだけれど、今のヨーロッパは国境があってないようなもの。カリフォルニア州からオレゴン州に入るのと似たような感覚だ。道路の標識の色が変わる。村や町の名前はハンガリーでもスロヴァキアでもポーランドでも、どう発音するのかほとんど見当さえ付かない。YXVKSYといった感じで、視力検査のときにずらっと並んでいる文字を見てるみたいだ。
スロヴァキアは山が多い国。それでも麦畑が目に付く。ヨーロッパ人が食べるパン、パスタ類はすごい量なのだろうね。スペインやフランスへ行くと、畑にできるところはすべてブドウ畑という感じだけれど、東ヨーロッパはすべて麦畑、続いてとうもろこし畑だ。国道は2車線で、ソノマのローカルの道路みたい。小さな村をいくつも越えてポーランドへ向かって走る。ランニングシャツで花畑に水を上げてるおじいさん、ビニール袋を提げた買い物帰りの女性。小さな村の人々の営みを肌で感じる。スロヴァキアにはフランスやドイツで見るお城はひとつしか見えなかった。建物は質素。
ポーランドへ入った。突然、建物は三角屋根の2二階建て、3階建てに変わった。3人が今回の旅で最後に訪れる国、ポーランド。東ヨーロッパというとソ連の統括下に置かれていた暗い時代、そしてナチが殺戮を繰り返した第二次世界大戦を考えずにはいられない。私たちはナチがシステム的にユダヤ人を殺戮したアウシュヴィッツを訪問することにした。そこでアウシュヴィッツに近い都市、Krakow まで6時間かかってたどり着いた。ワルシャワはブダペストから10時間かかるから遠すぎる。ポーランドは平らな土地が地平線のかなたまで続く。麦畑、そして落葉樹の森、小さな村、村とはいえない10軒ほどの家が散らばっているところ、中くらいの都市をいくつか通過してKrakowに着いた。
翌日、ロシアの国境近くにある小村を訪れようと、田舎道を走っていたら、二人の若いパトロール兵に止められた。
「パスポートは?」「ホテルに置いてきた」
「500m向こうはロシアだよ。ロシアの国境だということを知ってますか?」
「えっ、ロシアの国境なの?どこどこ」初めてたどり着いたロシアの国境にちょっと興奮して、思わず体を乗り出してしまった。相棒が「GPSで走ってるから、ロシアの国境がどこかわからなかった」と答えた。相棒の運転免許証を見て「カリフォルニアから来たの?なんで車をプラハでレンタル?」
「娘が学校に行ってて、それが終わったので3人で、ハンガリー、途中でロンドン、それからポーランドへ来た」と相棒が答えたら、若い二人の兵士は「クレージー!」と笑っていった。ついでに相棒が探している小村の名前を言って、この近くかどうか聞いたら、「ここから10km。まっすぐこの道を行きなさい。チェコでは車のライトはつけて走るのが規則だから忘れないで」と念を押してくれた。英語が話せるパトロール兵でよかった。もし英語が通じなかったら、大変だったわ。
小村と小村の距離が離れている。中くらいの都市も少ない。それぞれの村が隔離されている。大都市ならユダヤ人殺戮の計画を徹底させるのは、ある程度容易なことはわかるけれど、ど田舎で、インターネットもテレビもない時代に、どこにユダヤ人が居住する群落があるかを調べて虐殺を繰り返した徹底振りが信じられない。全ヨーロッパをその影響下に統括したヒットラーの狂気。人間はたった一人の狂人に、これほどまでにコントロールされることがあるのだということを、ポーランドの田舎で感じてぞっとした。
明日、アウシュヴィッツを訪れて、その後、この旅の出発点、プラハに6時間かけて戻る。
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